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yamauchinamu

news 2008/11/19 08:35:02

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2006/05/21 (Sun)

フランス語はさっぱりわからずロラン・バルトなど読むと、「テキスト」という言葉と、「テクスト」という言葉は、語源が同じだとしても何か使われ方が違うように聞こえる。「テキスト」は何か、物語や概要のようなものをかんじて、「テクスト」と聞くと法典や掟や暗号や符号のような意味合いを感じる。codeに近いというか

テクストの問題というか、モチーフとモデルの話題というか
偶にしらべもので子供用の昆虫図鑑や植物図鑑など見るのですが、昔は水彩の精密な素描が多かったものの、今は写真で掲載されたものが多い。
制作のコストと手間で言えば妥当な気もしますが、そういうところに載る図版は圧倒的に精密画の図版のほうが良いように思う。
何か図版でみてその動植物を探して見つけると、探した人が見つけた物や形が、一番良くできた形にみえるし、図版の絵は、それをみつける手助けと印象を与えてる気がする。図版がモデルで、実際に見つけた物がモチーフに見える。
図版に掲載されているものが写真だと、図版がモチーフで、見つけた物がモデルのように見えてくる。
植物や動物など、幾らモデルを掲載したところで様々な形があるのでそのような見せ方が良いと思う。

これが建築物だと、図版も、その絵柄に出てくる建物を実際に見ても違わないはずなので、図版と、実際見た印象はあまり変わらない方が良いなと思う。

あと気になったのは、ファッション誌での着こなし方の掲載など、こうやって工夫します工夫してくださいと見せる場合は絵の方が良いけど、この商品をここで買ってくださいと見せる場合は写真のほうが良いだろうなぁと思う。しかし今の資本主義では圧倒的に後者が受けいられるのが普通だろう。

図像の読みとり、なんですが、みた人が絵から実物を補完して見たほうが良い場合と、実物が実物のように見えた場合があるなと思った。





クリエイティブ・コモンズだとかLOHASだとか、そういうこう事柄や意味合いは決して間違っているとは思わないが、あの横文字感覚で使われる気持ち悪さは何だろう?
どちらも坂本龍一が何か一言言ってそうな気はする。

公民館などで行われる「バザー」はダサいが、「フェアトレード」とか言うと何処か聞こえを良く感じる馬鹿な話。



2006/05/20 (Sat)

ジョン・タイターというタイムトラベラーが色々予言していったことがあるんだとか、真意は兎も角、起きても可笑しくない世の中のような?

美術の話題で、20世紀でマルセル・デュシャンがありがたく扱われて崇拝される現代美術の話がある
デュシャンのやったことは戦後当時の美術館や美術の制度に基づいて、それと同一したように作品を作るということが彼のした事だと思うのですが、例えば、これから50年後、今の美術館の概念から、もうちょっと変わって来るのではないか?考えていることがある。

多分、電子な端末とインターフェースで、映像や音楽や文学やゲームなど共有出来るモノは殆ど共有されて、一括して何処からでも引き出せるようになる
逆に物として、美術作品や民俗学的な物、博物的なものは、一括して扱う場所が出来るのではないか?と、やんわり考えている。
あと個人の私設の専門館もあるだろうとか

そんなことを思うと多分デュシャンの論理は通らない、ただ歴史の記録には出てきても、古典落語のような扱いになるような気がする。

あと、最近ボンヤリ考えるのは、戦後のアメリカ美術史やそれに依存する作品や、セザンヌと彼を必要とするがもしも居なかったとして50年や100年たつと、どんな物が重要視されたか?とも思う

案外、モランディとか、バルチェスとか、ノイエザッハリヒカイトあたり重要になるかもね?とかね



ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 -2006-04-29 ホワイトハウス晩餐会でステーィブ・コルベアがブッシュをホメ殺し!
http://video.google.com/videoplay?docid=-869183917758574879
この記事やとっても面白いので、みんな見ること
youtubeやgoogle-videoは、このように使うのかと思いましたよ。必見
あとgoogle-videoの貼り付け方が判らなくて無念

ニコラス・ルイ・ラカイユ
星座表を見ていると変な名前の星座に気づく、がか座、けんびきょう座、ちょうこくぐ座、ちょうこくしつ座、ぼうえんきょう座
神話とも関係なく近代的なモチーフ
というのも比較的最近(大航海時代)ついた星座なのだけど、これが同じ人に付けられているニコラス・ルイ・ラカイユという人らしい、
「神学を学んで司祭となったが,独学で数学と天文学を学び,カッシニとの出逢いをきっかけに天文の道へ進み始めた。」人が遺書でつけたとか
どういうセンスなんだか?

星座に望遠鏡と顕微鏡とつけるのは、宇宙理論と量子学が繋がる話題に考えるのは都合良過ぎだけど、おもうことはある。



2006/05/19 (Fri)

NHK映像ファイル あの人に会いたい「村野藤吾」 2006年 5月21日(日)
動く村野藤吾!

○○らしいの話。その3
2006/05/06 (Sat)
2006/05/13 (Sat)
の続き

中谷礼仁・記録・2006年 4月 16日 (日)にて、
>(omoloさんが5月6日の日記で指摘している「らしい」問題はまさしく様式問題の核心ですね、とジョン・サマーソンも言っていた…追記)。そう発想を逆転換させてみると、実は擬洋風に込められた擬という言葉にこそ、様式に対して自由である空間が確保されるのではないか、いや「擬」こそが様式の核心なのではないか。

ここでは中谷氏、建築の擬洋風について言われているのだけど、勿論、中谷氏が凄いディテールで歴史検証されている話題をなんとなく伺っていて、「○○らしい」話を考えていて、建築の擬洋風のことと同時に、近代洋画のことも考えていました。

さらに「擬」のつく言葉、例えば文法の擬人法や、生態系の擬態なども考えていました。
infoseek マルチ辞書によると
>【擬】 [音訓]ギ・なぞらえる・まがい・もどき
と出てくる。

確かに昆虫の擬態が見られる種類には「モドキ」とついた生き物も少なくないし、形は似ていても別の系統ということもある、また虫や動物のは、別の系統に似ている者もあれば、風景に似ているものもある、植物にしても動物のように見えるものもあれば(「冬芽ちゃん」)、虫を食べるものもあると
文法の擬人法で言えば、人の言葉を会話出来る物や動物がいても、会話が通じない人というのもあったりする。

その擬洋風、擬態、擬人法が出来るのは、そういう世界観や生態系や言語を豊かにする為にあると

涼宮ハルヒに習えば
「この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらでてきなさい。以上。」
を引いて、宇宙人は言語の問題、異世界人は世界観の問題、超能力者は虫や動物など生態系の問題と無理を感じつつ置き換えて足りないなと思うのは、未来人

歴史を超越しつつ各々の時代にそれらしきモドキな存在でいるタイムトラベラーのような立ち位置があってもいいし、そういう物事はあるけど、擬昭和風、擬近代風、擬現代風......という言葉があると僕が便利だ!


そういうことが面白いらしい。



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