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yamauchinamu

news 2008/11/19 08:35:02

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2006/04/03 (Mon)

 
 

かなまら祭
かなまら祭は川崎大師にある金山神社のお祭り。通称「ちんこ祭」。以前から、人間の性器を安産祈願などの本尊として祭った神社はあると全国に聞いていたものの、行けそうな地域と日程がつかめたので楽しみにしていった。
12時頃の到着時、すでにチンコの御輿が町内で練り歩いていて圧巻。また、一時的なイベントというよりは長いスパン続いているイベントなので妙な貫禄と地元の住民に親しまれてる感じがとても良い。色物のよそ者がやってきて派手なことして去っていくようなイベントや企画がとても貧相なことにも思えました。色物イベントして外人の観光客も意外と多かった。
あと目を引いたのはゲイやオカマの方による御輿など、性的に一般的とは言われない人達も好意的に参加され受け入れられてる様子がとても良いイベントだなぁと思いました。こういう風景見ると柔なジェンダー論が吹き飛びます。屋台や売店でも、チンコをかたどった飴や徳利やキーホルダーなど売られていました。毎年4月の第1日曜日にあるイベントとのこと。





 

蒲田七辻
maps.google.co.jp
蒲田にある日本最大の交差点、蒲田七辻に行ってきました。
七つの道が交差する交差点で、風景そのものよりも何故そのような道が、どのように出来たか?のほうが気になりました。
パリの凱旋門の周りは何差路?




昭和くらしの博物館
川崎の方に出向いたので以前から気になっていた、昭和くらしの博物館に行きました。元々小泉和子さんのお宅を修復して、当時の暮らしを再現した博物館。何処かで聞いて気になっていてサイトを見ると、監事:田中文男(関東のえらい大工の棟梁)というところでも気になっては居ました。
丁度最近、小津の「お早よう」を見直したところで、当時のロケ地からそう遠くないだろうところと想像しながら、映画の風景や当時の暮らしぶりのことを考えていました。

入場料は500円。博物館といっても小規模なので人によっては、退屈かもしれません。座敷でお茶やお菓子を頂いたりし、博物館の内容で500円と聞くと物足りないかもしれませんが、そういうくつろげる茶の間の喫茶店で500円のオーダーしたと思うと、これがどこぞの「カフェ」なんかより、大変良い印象に思えてきます。

僕は金沢の都市部の下町の育ちで、丁度小学校のころ訪ねたクラスメイトの家のような感じがあってなんとも落ち着けました。



2006/04/01 (Sat)

シュレーディンガーの猫
「量子力学においては、「状態は確率でしか表現されえず、むしろ様々な状態の重ね合わせである」とされるが、この考えは我々の常識と異なるどころかパラドキシカルに聞こえるということを、物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーは以下のような「箱の中の猫」の思考実験を用いて示した。この猫をシュレーディンガーの猫(シュレーディンガーのねこ)と呼ぶ。」

この話、例えば天気予報の降水確率で40%晴れと言われたところで、実際のところ天気は晴れるか?雨か?ぐらいしかないということだけど


これをアートで考える。
例えば、壁にキャンバスが飾ってあったとして、画面に対して何%塗ってあるから、塗り込んだ層が何%あるから、表彰する形が何%あるから、壁に対して何%の割合の大きさだから、、、この割合を総合的に、何%いかないと、そのキャンバスは壁面に対してのストラクチャーで、何%越えると絵画になるという考え方は成り立つのかもしれないが、実際にあるのは、壁に絵画がある、壁に絵画はない、という話題に持ってこれるのかもしれない。

物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーが、量子学者の確立論の批判になるこの考えが美術の話題に置き換わるのなら、この物理学者の立場をアーティストと代入すると、量子学者の立場は何になるんだろう。
いや、その前にどんなアーティストなのか?考える必要はある。

また似たような話、「それが美術品である」「それが美術品でない」という話題を、今まで鋭く考えたのはデュシャンになるだろうけど、もう50年ほど前の美術館という制度に当てはめて考えた場合、それはまかり通ったとしても、流石に今にして、レディメイドの観念が今通用するように全く思えないし、安易に置き換えたところで、デュシャンを引く通俗的な歴史主義形式主義ということで終わると思う。

そう思うと、シュレーディンガーの猫の話題を今どうしたら、「これは美術である」「これは絵画である」ということも面白く導けるようなところもあるかも?と思った。

この話題2005.12.26の話題から続いているのです。僕の中で


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郡司ペギオさんが近畿大学に来られた時の話題を通して
僕は名前程度しか知りませんが認知科学の方のようで、彼の何をどう捕らえるか?みたい話題で

彼の話題にするところ
「AがAである」と認知する時に(絵画が絵画である、ビールはビールである、置き換えは何でも良いです)
それがそれだと特定出来るとき、意味が外れる「外延(extent)」と条件が意味がすることの「内包(intent)」があると、内包内にあると決められるのは、経験や条件や不特定多数内の意見の一致などでなりたつと
その intentにあたるものが言語だとすれば、境界線にあたるものも言語で、場合によっては置き換えも出来て
例えば、「美術品が美術品である」みたいこと、境界線と内砲するintentの範囲を置き換えたり交換しようとしたのがデュシャンにあたるでしょうとか
境界線にあたるのもを、小林秀雄にとって言霊と言った、翻訳不可能、自国語を自国語として受け止めてしまうような言葉、例えば「馬鹿」を"poor"と訳すことなく、置き換えるなら「アホ」とかになるようなことがらだとか
これは、彼らの話題に直接出ませんでしたが、グリンバーグの純粋絵画の話にも繋がると思います。

そういうものがある。そういう考えがあると郡司ペギオさんの話を通して話していました。
それでメディウムがそのメディウムたらん条件を求める行為が面白いねで(写真の心霊写真の話題とかと繋がっていた気がします)

あと、これは僕の聞いて不確かに思った事ですが、その外延(extent)と内包(intent)の境界線をある精度で見つけたとして、それをそのまま提示したところで面白いか?妙で、どうやってそれを特定するかが?肝みたいことがあるような気がします


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なんか自分の興味があることをスッキリと言語化できることに気づいた
「○○は、△△であるにもかかわらず□□だ。」
○○=△△、○○=□□だけど、△△と□□はイコールではない。だけど成り立つとか



 
 

ここ一年ほど、三鷹の国立天文台である定期観測会に都合つけば行ってるんですが土曜日も行ってきた。
天気は晴れていたのですが、空模様が悪くその日の目当ての土星は観測できませんでした。

観測会のときに、天文の大学生がやっている 「天塾」
の話を聞いていて面白い。いや殆ど全く分からない話で聞いていて面白い。
なんとなくわかる話だとか、なんとなくわかるような話は結構聞いていて退屈だなと思ったりもするけど、全く分からない話というのは聞いていて面白いものかもなと思いました。

先日聞いた話題は、天体を観測するための偏光式の望遠鏡の開発の話でした。餅は餅屋、但し餅の味がわかる人が居ないと良い餅は出来ないと、話題を閉めていました。本当この程度でしか、話がわからなかったのですが






僕は全く知らなかったんですが>「二階堂奥歯 ◇ 八本脚の蝶」というサイトが書籍化したそうで
http://www.bk1.co.jp/contents/booklist/0601_okuba1.asp

サイトを一通り読んだ。なんでも早稲田の文系の出身で国書刊行会の編集者の方だったとか。
「早稲女」というのか?澁澤龍彦など幻想文学が好きで早稲田を出て国書刊行会に勤めるなんて、その道では相当エリートではないかしらんと思った。
僕自身そういう育ちををしていないので全く分からないが、日本で江戸川乱歩や澁澤龍彦や室生犀星など幻想文学?と言われるものに興味を持っていて目を通すような文化?って何故か、早稲田の女の子が多い気がする。教授の影響などあるのか?そういう趣味の人自体珍しくないが、ある程度の読書量や思考がともなってくる人が早稲田の女の子が多いような?いや早稲田の女の子でなくてもそういう人は居ると思うけど、そういう文化圏は、例えばフランスに生まれてサドやバタイユなど母国語で読んできた人の文化とはちょっと違う、元々翻訳されたものが有るにもかかわらず、妙な誤訳感というかなまりのようなものがあって、独自の文化になっているような気がする。

そういう文化の男の人って妙に浮かばない、

あと今年になって憶えた言葉、「早稲女(わせじょ)」今年の新年会かで、音ハメの津田さんや、瀧坂くんが口をそろえて口にしてた。僕は何故か自分の行った大学の次ぐらいに早稲田だった人に知り合った人が多く、言われてみて見ると確かに早稲田の女のひとは、僕が他で知り合った女の人とは違うムードがあるなと思いました。いや決して嫌な意味ではなく、そういう方々からいろんな面白いことを教わるので、良いとか悪いとかでなく、そういう特徴があんのかな?と思ったりします。

それでその二階堂奥歯さん、もう亡くなっているそうなんですが。死人に口なしというか、死んでる人というのは色々その人の話題で本にしたり、物にしたりしやすいものかな?とちょっと思った。
あと死因が自殺のようですが、自分より若くして自殺する人もいて、自分は生きていて、勿論もっと生きてる人もいて、仕事の向き不向き才能云々言う前に、人間として生きる才能のある人ない人ということもあるかもしれないと思った。




中谷日記かで、自分は右手と左手を同時に違う動きが出来ないので、楽器は演奏することなく聞くに徹したとあったが、僕もそういう風に音楽を演奏する関心は殆ど持たなかった。
だだ、何か幼い頃、出来なくてもやるってことがあった気がする。僕が小さい頃「ザ・ウルトラマン」という番組がやっていて「サ・ウルトラマン」、「ガンダム」を「アンダム」と発音していたころがあったと思う、幼稚園かそれ以前か?
あと、ドラえもんを模写しようとして、どうしても出来ない(図参照)、青い枠の中に目玉を書き入れてしまう。
その出来ないからやらないということと、出来なくてもやるって違いはなんだろうな?と


駒場野公園の田んぼで、子供と、ドロ団子の投げ合いをやった。
子供相手にムキ本気になる割に弱い大人

駒場野公園の大学生のスタッフと僕の大人チーム
相手は育ち盛りの小中学生男子5人ぐらいの子供チーム

なんか、逆光にならない場所に望みたいやら、「タイム」いうて死角に来て攻撃とか、もう疲れたよと僕が休んでいると容赦なく攻撃、本当容赦ないボコボコにされた。
時折、凄いむかついたので首根っこ捕まえて泥沼に押し当てたりした。

有る意味、僕はボコボコに当てられてスッゴイ悔しい!
子供相手に、むちゃくちゃ悔しいんだけど!

なんでも聞く話、春先がドロ団子の投げ合いが出来るシーズンらしい。子供が束になってかかってくると本当容赦ないんで、なんとか打ち勝ちたい!
子供相手にムキになる大人ですみません

凄っげー悔しいので、今度はボコボコに当てたい、誰か子供相手にドロ投げ合戦がしたい方は連絡下さい。応援求むー!
多分2週ぐらいあとの日曜とか、かな?

カッパとか長靴が必要になるかも? 悔しいなぁ

吉祥寺の駅付近の横断歩道で神さまに会いました
僕は丁度アイスを食べてるところで、
向こうからやってくる神さまに気づき興奮気味
なんとか勇気を振り絞り、目を合わせ「握手してください」
と言うと神さまは握手してくれました。

プライベートの神様は久々、数年前のコミケの日、お台場で見たときは固まりました。初めて見たのは大学受験が終わって中央線で見かけました。
それ以外も偶に講演会や握手会で神様にあったのですが、プライベートな日に神様に会うって嬉しいなぁ、それだけで今日一日がみんなOKになる気分がした。

出来れば神様に話しかけたいのですが、最近までのインタービューを読むと殆ど僕の知りたい事は殆ど答えられているんですが、それでも何か話を聞いてみたいと思ったりもします。想像で

しかしそう思うのも後の祭りで握手して頂いて、ポワワンとしてお礼の言葉の一言もでなかったぁ。

イアラー!とか言えば良かったと後で思う。




2006/03/17 (Fri)

楳図かずおの「おろち」にこんな話がある。
男の子が主人公で、一見怖そうないい人に、「お前の父親は戦下で俺の足を食べられた」言われ。今までいい人だと思ってきた父親が悪人に見えて、その父親の過去の罪を許す許さないと悩むが、昔は悪い許せない出来事をしたかもしれないが、今は取り立てて悪い行いもなく、むしろ尊敬出来るひとだから良いのかもしれないと、ひとまず少年が納得した話があった。いや何の話題を言いたいかと言えば

松永英明さんの一連の疑惑についての話題で、blogのシステムや使い方で著名な松永英明さんが、「河上イチロー(ハカイダー)」で、元オウム信者だったと
この話題から宛にもならない疑心暗鬼や推測で魔女狩りとか、そういう話題や成り行きがあるとしたら、それはそれで酷い話だとは思うが、この松永さんの仕事で、誰かの役に立つ振る舞いが今なりたっているなら、それはそれで良いじゃないか?とは思った。その他の面で確実に問題有るならそれはそれで別の話。
ここで直ぐ元オウム信者「キモッ」と切り捨てるわけでもなく、何が良くて何が悪いのか?考えてから色々起きる世の中じゃないと恐いなと思いました。

松永さんのオウム在籍時の話で、サリン事件の頃、オウム内では当初オウムに当てつけた人達が行っているように感じていたと、、、、、それを聞いて思い出したのはブッシュ政権の大量破壊兵器は何処にある?とか、誰が何処で何でアメリカを攻撃していたのか不鮮明だったことを思いました。
そう思うと、今のアメリカはオウムみたいだなぁと思いました。

別の話題、松永さんは日本のトップクラスのweblogについてのライターとは言われますが、一般的に良い話題は広がりにくく、嫌な話題は広がりやすいと、実際松永さんの周辺に関わる方もそのような技術や話題に強い方が多いはずで、あんまり良い話題だとは思わないけど、このニュースの影響力がどのくらいweblogというモノが現実的に効果を持つ指針になる気がします。
いや、みんながそう「weblog! weblog!」言うほど効果のあるメディアでもなく、それなりのメディアだったって結論が落ち着くような気がしなくもないと

しかしこの話題色んな意味で、考えることが多いです。




今年はじめて買った雑誌は「あたらさん」2号
去年読んだ雑誌で一番面白かったので、話題が結構わからなくても、雑誌の随所に工夫が見えて面白い、雑誌作りの工夫や、モチーフにある工夫。ディテールより工夫を読む雑誌の気がする。しかし最近の暮しの手帖の迷走ぷりは謎行き。
表紙に「信州信濃はロハスな国!?」と描かれて、ちょっとロハスという商品をこけにしたような?ロハスよりもロハスな感じがイカス!
昭和ブームにあやかって、ちゃぶ台が出てくるけど
普通の雑誌だと、お店と商品と価格を紹介して...ってことになりそうだけど、昔の暮しの手帖のページから、ちゃぶ台を作るようになっていて、釘を使わないとあるので、ほぞを掘るのかな?と思えば板を合わせてホゾを作る方法だったりと、なるほどなと


最近ネットの話題で「web2.0」という言葉を聴きますね。googleやyoutubeが1つモデルになるような。
受け手と送り手と論者がフラットな関係で、司会するサイトも元々情報量を蓄積しているというよりは、探してるひとがより効率よく探していることにたどり着くようなシステムを目指すコンテンツ+プログラム作り

ここで(仮)アート2.0なるものがあるんんあら、どういうものか?妄想した。現実化するのはどのくらい先なんだろう?と思うけど
まず、今までの美術館に倉庫と展示室があって学芸員がいてって美術館プログラムは成り立たないだろう。
かといって展示スペースなど不動産的なものは必要だろうし、かといって誰か作者がコレクターが作品をストックする倉庫があれば良いとか、そんなこと思うとアーモリーショーみたいなものかなと

web2.0というのは、そのバイパスになるサイトに情報を提供して見てコメント寄せる参加者と、そういう参加のないただ見てる不参加者には何か格差が起こる気がする
あと、そういう参加者の中でも、たとえば、アーティスト、コレクター、評論家みたい垣根が一見なくなりそうで無くならない、ちょっと別の枠組みがあるきがして、それをアートの世界で例えると?どうなんだろうなと思った。

NHKの吉増+柳田が結構面白いのだけど
柳田少年にとって神社が怖くて面白い話題があると思う。
僕にとって神社がそういうものだった印象があまりないけど
やっぱり、易しくて確固よくて楽しくて面白かったものより、最初ちょっと怖くてなじめなかったもののほうが後々、リファレンスしやすい面白みがあるんじゃないか?と思った

多分僕の時代は、神社が怖面白いというよりは、もう学校が「学校の怪談」的なことになっていた気がする。

僕が高校に入るまで関心ごとでも、最初ちょっと怖いなぁって思うところのほうが後々面白かった気がする。

学校のディテールで言えば図書室のモナリザが怖いとか(古典絵画って怖い)、地下の倉庫やボイラー室、資料室準備室と...

ファミコンやポップアートって、「易しくて確固よくて楽しくて面白かった」のか?関心は持ちやすいけど、褪めるのも早くて、スーファミ以降のゲーム機は殆どやってないし、高校生にもなって「アンディ・ウォーホル面白い」なんて思うのも恥ずかしいなぁって思っていた気がする。

小学生の頃は普通に、ダイエーやジャスコに連れて行かれる子供だったけど、物心ついて行った本屋や洋服屋、レコード屋は最初一人で行くには凄い躊躇したような気がする。

なんだか、そんなことを思った。

さて今の僕にとって新しい怖いことって、なんだろうなと?
ぼんやり思ったのは語学、国語と外国語



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