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yamauchinamu

news 2008/11/19 08:35:02

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2008/07/08 (Tue)

制作のための12の注意事項

一、あたかも虫が飛んできて、そのままそこに止まったかような心の動き。
二、作業にはけっしてしばられない。
三、近づくと、視野が広がる。
四、はじめからそこに在ったかのような、もしくは瞬間に出来上がったような。
五、色、そこから光はそこに残る。
六、壁に静止している虫は重さを壁に委ねていない。
七、小さくて小さくて大きい大きくて大きい小さい、そんな。
八、そこがどこから始まるのか、わからない。
九、測られることを拒む。
十、こわそうと思えばこわせる、あるいは保存しようと思えば保存できる。
十一、見ると見つけられてしまう。
十二、見るたびに忘れてしまう。

(岡崎乾二郎「美術手帖」1983年3月号p.33)




2008/07/07 (Mon)

「現場」研究会特別編シンポジウム「80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術―画廊パレルゴンの活動を焦点として
パネリスト:市原研太郎、大村益三、暮沢剛巳、藤井雅実、吉川陽一郎
聴講者で気づいたところ、アーティスト:海発準一,藤堂良浩,前本彰子
批評・ジャーナリスト:西村智弘,北沢憲昭

※このシンポジウムで聞いた話を元に、立ち話や過去に聞いた話のまとめ。

■当時の関東が主の現代美術のせかい
70年代末、斉藤義重・峯村敏明・東野芳明・李禹煥・宇佐見圭司が多摩美で、榎倉康二が芸大で、若林奮が武蔵美で、宇佐見圭司がBゼミで、教えていてその教え子世代が、ポストもの派だとかニューウェーブと呼ばれた。多摩美のそのあたりの講師陣の最初の方の生徒が、美狂徒とか、もの派とか、団塊のアバンギャルド。

アルテポーポラ、アンフォメル、シュポール/シュルファス、ポストミニマルの登場後、結構マイナーな形でそれらがゆっくり翻訳と紹介がされ、特にアメリカ戦後美術の紹介や批評の翻訳は、藤枝晃雄によって密教的に翻訳された。(ある意味、アメリカの現代美術の翻訳よりフランスの現代美術のほうが翻訳がスムースだったのでは?と思う。)絵画の不可能性とか、芸術や絵画の終焉みたいな話題があって、日本では連動する形で、もの派や具体など、団塊のアバンギャルドが、非表現的な表現を推し進めるモードがあり、当時の日本の現代美術の世界では方法論として、キャンバスに絵の具を付けるだけ、粘土をこねるだけでも難しい世界で、「ニューウェーブ」の人が使われて、ギャラリーや美術雑誌で「絵画の復権キャンペーン」が行われた。第一次は70年代末から80年代初頭、第二次はジュリアン・シュナーベルなどニューペインティングの紹介に重ねて行われた。

国内でインスタレーション技法が大流行。

微妙に当時のアバンギャルドを乗り越えたり差別化する形で、「ポストもの派」とか「ニューウェーブ」と美術手帖などで言われて登場した。発想的に特に此処が共通した技法や発想がないものの、もの派や具体など団塊のアバンギャルドとは違う世代や作風の作家としてまとめて紹介された。団塊アバンギャルドの下の層でボーダーは例えて言うなら戸谷成雄、ただ田窪恭治など「ニューウェーブ」で紹介されるのはその枠の割に年上の人もいた。大体今現在50代の現代美術のアーティスト、ポピュラーなところで、関東の川俣正、宮島達男、岡崎乾二郎あたり、 50年代中頃の生まれ、関西だと森村泰昌とか中原浩大とか石原友明とか

雑誌、イラストレーションの創刊は79年、ブルータスの創刊は80年、そのあたりが日本の図案の思考とNYのニューペインティングが結びついたアーティスト(例えば日比野克彦、大竹伸朗、横尾忠則など)が結びついて出やすい媒体になった。横尾忠則の画家宣言とニューペインティング。思考や客層でパレルゴンとは直接関係ないけど今にしてみると、ゴチャゴチャになる当時の出自の違う立場としてそういうところがあった。

80年頃の若いアーティストの作品に、結晶のようなものは感じなかったが思考の拡張性は高かった(=大きさや量で見ないと何をやってるかわからない。また、そのような作風にも関わらず、お金がない)。ブリコラージュの技法が技法として認識されたせいか、彫刻らしくない素材を使って彫刻らしく見える組立を感じる作品や、彫刻らしい素材をつかって彫刻に感じない作品など見受けた。

一般に笠原恵実子から、日本のシュミレーションニズムがはじまった(ex:椹木野衣)と言われるが、パレルゴンで展示した作家でも荻野裕政(現在制作中止)や大村益三など既にシュミレーションを認識する作家はいた。

"超少女"のアーティストは当時は可愛く見えたはず(こんな話題は会場で話題になってないけど、会場で今の前本彰子を見て思った。)

それでそれを見ていた、市原研太郎と北沢憲昭の話。
市原研太郎は70年代に偶々パリに居てパリ青年ビエンナーレを見てそれを切っ掛けに美術の世界に興味を持ち帰国してアーティストを志した時もあった。しかし市原研太郎は当時の日本での美術を取り巻く環境や同世代のアーティストに不満に思いドイツに行きヨーゼフ・ボイスのクラスの生徒だった人(リヒターやポルケとか)の作品を見て自分より若い世代と仲良くすることで美術ジャーナリストになれた。
北沢憲昭は元々現代美術に興味があったが、日本で美術というでっち上げを根本的な問題を調べるうちに、日本の近代美術の研究をするようになった。
市原研太郎と北沢憲昭は80年代初頭、神田の真木画廊でバイトしていた。

■当時の言説
1976 マルスラン・プレーネ/岩崎力訳「絵画の教え」
1977 藤枝晃雄「現代美術の展開」
1977/4月号 美術手帖「絵画の平面と平面の絵画」
1978/2月号 美術手帖「絵画と平面の相克」
1981/1月号 美術手帖「80年代美術:動き出すニューウェイブ」
1984 小冊子「現代美術の最前線」パレルゴンIIより発行
1983 浅田彰「構造と力」
1983/7月号 美術手帖「ジュリアン・シュナーベル」
1983 第九回美術手帖芸術評論、松浦寿夫「絵画のポリティーク」
など

■マーケット
80年頃過ぎも銀座の美術が市場のメインで、神田がアバンギャルドな場所だった。また当時稼いでいたと言われる東京画廊でも月?100万程度の上代しか出していなかった。顧客は美術館だったが現代美術館が未だ殆ど出来ていないころで、ニューウエーブの上の世代までは美術館に納品する機会が多かったが、その後の世代は全般に彼らと比べると売れなかった。(ゆっくりと大手美術館や企業の納品から、個人への売買へ20年ぐらいかかって移動してるような印象がある:注:やまうち)
世代的に市場の貧乏くじを引いたが能力のある作家はあまり関係なかった。
その後の世界、レントゲン芸術研究所と椹木野衣とコレクターはある意味良い意味で(共犯関係で)、作家と紙面と顧客を結びつけた。

■パレルゴンについて
オーナー:藤井雅実。1981年に画廊パレルゴン(1981-1983)を開き、パレルゴンII(1983-1987)を含め10年ほど運営する。言葉はデリダが引用したカントの言葉、絵画の額や彫刻の台座など其れ自体作品ではないけど、設置などで作品の一部として必要なもの。"パレルゴン"は元々藤井雅実一人で運営していた。元々裕福に稼ぎが出る事業ではなかったか個人的な出来事で大変なことが重なりそのままギャラリーを営むのは大変になったこと、また付近に多摩美系の院生や卒業生の自主管理画廊「ギャラリー4F」も立ち上がったこともあり、パレルゴンの方は芸大の院を修了した作家たちを中心に自主管理で続けようということで、芸大関係の方をスタッフに"パレルゴンII"を始めた。基本的に貸画廊の仕組みであるが作家を選んだ。(と言うことはアーティストにお金と能力が必要だった。)週10万円前後で貸していた、企画の場合は、実費や事務費用だけ負担願う。作品が売れれば、全額作家の取り分とする、というような形態だったそうです。またお金の無いアーティストには安く貸したり、お金のある人から支援してもらう時もあった。レオ・キャステリ画廊やポーラ・クーパーから似た傾向の作家を輩出したが、パレルゴンも似たようなところがあった。主な展覧会に1982年「現代美術の最前線」展など。

パレルゴンはパレルゴンと言った瞬間にパレルゴンでは無くなるのではないか?」
→「言葉の意味が一般に理解されていなかった。怪獣の名前だと思われていた。」藤井雅実

藤井雅実は1984年に小冊子「現代美術の最前線」パレルゴンIIより発行。また「GSたのしい知識」に記事も書いていたとのこと。79年にルナミ画廊で展示をしていた。現在は翻訳や美学・現代芸術理論の専攻をされているとのこと。椹木野衣の登場と入れ替わるように90年代に入るあたりから、若いアーティストの現場から古典的な話題に関心を持つようになった。会場では藤井雅実は女のものの洋服を着ていたけど、どうもゲイとかオカマの人という印象が無かった。強いて言うならヴィジュアル系。

展示した作家はわかるところ、大村益三、吉川陽一郎、田窪恭治?、川俣正、宮島達男、岡崎乾二郎、荻野裕政、中村一美、井口大介、山本裕子、伊藤誠、諏訪直樹、松浦寿夫、遠藤俊克、関口敦仁、黒川弘毅、笠原恵実子、松本春崇など。

藤井雅実は岡崎乾二郎とは同年代。20代初頭に藤井雅実があるシンポジウムで質問時間に野次った後、岡崎乾二郎に声かけられたのが最初の付き合い。岡崎乾二郎は当時極端に色んな人とつるむのを拒んでいた。岡崎乾二郎が雑誌「FRAME」を出した頃から疎遠になってしまった。

川俣正は藤井雅実がグループ展で声をかけた。若い頃の川俣正は海老塚耕一や榎倉康二など少し上の年代のもの派との付き合いが多かった。

■その後の世界・その他の世界
セゾン美術館の「視ることのアレゴリー」展はある意味同窓会的。
椹木野衣+レントゲン芸術研究所。
杉本博司とか、ニューウェーブの世代だけど海外組。
名古屋の動きは微妙な圏外
80年代末からのキューレーターの時代到来(ポンピドゥの「大地の魔術師展」とか)
美術手帖があまり影響力を持たなくなったと同時に小さい規模のメディアが分散した。

■その前の世界・その他の世界
寺山修二、暗黒舞踏、赤テント、ゼロ次元とか土着的な活動の捉え方
戦後から当時の海外のアヴァンギャルドやフォーマリズムの紹介・批評の翻訳と折衷の問題
美術批評の御三家(東野芳明・針生一郎・中原祐介)や美術手帖などメディアの片寄りと話題の取りこぼし
日本の団塊アヴァンギャルド(具体、もの派、宇佐見圭司、荒川修作など)
芸術の終焉の話
シラケとオタク0世代

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パレルゴンは、僕が色々美術を教わったアーティストの経歴の大体何処かに出てきやすい当時の画廊で、だいたいパレルゴンでやった人で上手くいった人が受け口でセゾン美術館などで展示していたと思う。パレルゴンは名前や字面は活字でよく見かけていて、その割には展示風景やギャラリーの形態について殆ど良くわからない。それでこの機会を知って相当心待ちにしていました。

美術関係の人で今ではパレルゴンって言ってわかる人は殆ど居ない。50代以下は、言葉を知っていて良い方で、行ったことあるって話を聞いたことある人は知人だとオペラシティの堀さん、ゆーじん画廊の和田さん、話題にしたこと無いけど確実に行ってる知人で想像出来るのは元セゾン美術館/現四谷近畿大の中村麗さんぐらい。

日本の文化でアヴァンギャルドな文化を勝手なイメージで言うと、学生運動やジャズやロックやもの派と、結構お座敷や居酒屋や日本酒が似合う風景が多く、そういうところから切り離れたイメージで、美術や音楽のニューウェーブや、ニューアカデミズムみたいものは、あったように感じるときがある。(現実はさておき)

藤井さんの語り口調、エリクチュール?みたいものも、やや懐かしさを感じたものの、今普及しているようなフラットな単調な論調より含みがあって面白いなと感じる話題や話し方がありました。パレルゴンのオーナーってこういう人だったのかと

問題意識としてポストミニマルあたりまでの作品の関心は気になるものの、その時の作家のようなことも出来ないし、かとってニューペインティングのアホな感じにも妙に乗れないところが僕にはあって、そういう話題の当時の捉え方となると、日本だとそれだと「ニューウェーブ」のパレルゴンの作家あたりになってしまう。しかし結構なニッチな話題で当時のことは情報に乏しい。また結構似た問題意識は起きてるところでは起きてるので興味持つ人は持つとは思いますよ。

昔、「ニューウェーブ」の下層階層で「超少女」って枠があった。
偶に、ぶり返すように、オッサンが若い美術に興味ある女子を愛でるって文化があって、少し後になると、HIROMIXみたいな1990年代の女の子写真とか、ぶり返していて、今はいい感じで「ガーリー」とか「乙女」って文化も消費されていて忘れられてきてるところがあると思います。
少女やガールが年をとって普通の人になるというか。女の人のアーティストの方は、若いとき妙に容姿が綺麗だったりしても、それを中途半端にウリにしないで(中途半端に売るから変なことになる。)全く容姿の良さ印象の良さを使わない。オノ・ヨーコや草間弥生のようなイタコのような人か、本人が表に殆ど出ない人の方がアーティスト寿命を長くすることが出来るような気がします。あと女の人のクリエイトは「おかんアート」のような民芸のようなものの方が、下手にアートとか言うより強力だとは思います。アイドルとかスタァとか容姿を見せることが前提のアーティストは容姿が劣化するとアーティストじゃなくなるところがある。極端な話、「超少女」が今アーティストとしてあまり聞かないのは容姿込みで紹介されたのに容姿が劣化したから、「超少女」では無かったものの近い年代の山本容子が今でもアーティストとして必要とされるのは今でも歳の割に容姿を保っていることと市場を広く扱ったこと。今で言うところの"超少女"は松井冬子!松井冬子は良いところもあるけど容姿で過剰に評価されていると思います。しかし、そういうことは今も昔もよくあること、最近の事柄で奇妙だなと思ったのは、グラビアアイドルの中澤優子がルシアン・フロイドに興味を持っていたりと、自分の現代美術の作品を見せるために容姿も込みで売るのではなく、アイドルとして見せるために現代美術にも興味を持ってることを示す人が出てきたのが驚いた。(中澤優子は美大卒でありルシアン・フロイドに興味を持っていて可笑しくないけど、そういう人がしっかり業界でグラビアアイドルをやっているのが凄い)。まぁ"ハチクロ"じゃないけど、美術のことは触れたくないけど美術に興味ある女の子に萌えって文化があるということ、それが個人のフェチや関心以上に雑誌の特集になったり作品が売れたりってこともあるという。

70年代の多摩美で、斉藤義重・峯村敏明・東野芳明・李禹煥あたりの話を素直に聞いたのが、「もの派」だったとすれば、やや捻くれていたのが「ニューウェーブ」だったのでは?って思うと兄弟げんかみたいだなぁ、お里が知れるというか?学校で学ばなかった部分を抜きに考えると、そんなに違いが無かったのかも?と思うところがある。世代間で妙なコンプレックスを生みやすそうな気がします。

今はアートバブルとかあって、40代ぐらいの市場に選ばれた人は作品で話題になってると思う。小山登美夫とか三瀦とか、その辺のギャラリーで売ってるような人。その辺のアーティストが上の年代のアーティストをネタにするとき、例えば、小沢剛が「なびす画廊」をもじって「なすび画廊」とか、会田誠が岡崎乾二郎をネタにするとか、そういうときに、この作家がネタにしてるこれは何?って話題が、美術の世界の流行や話題性が色々あって「この人誰?」「これは何?」それをネタにしたところでユーモアの必然性が見てる人に理解出来ないこともあるし、美術のモードも波が色々あって、10才20才上の作家や作品をネタにしても、後になってはネタとしてもイマイチになりやすいので、そういうことはやるべきではないなと思う。もっと大きなネタ、やるべき話題はあると思う。(今20代の人が村上隆とか昭和40年会の人とかの作品をネタにして作品を作るべきではないということ、彼らの20年後の扱いが良くわからないから、昔の人が浅田彰を愚痴ったように今の人は村上隆の話題を愚痴っている)
ステレオタイプな芸術家の話題性では、若いうちに死んで天才呼ばわりか、長生きして熟年の技術が良しとされることもあって、案外今50代ぐらいのアーティストって、続いてるだけでも凄いんだけど、若い人には押されるわ!年寄りにはとやかく言われるわ!、活動が少ないと幾ら長く活動していても素人扱いだったりと、なんだか践んだり蹴ったりで、可愛そうと言えば可愛そうな存在にも成りえることが起きるようにも思います。

美術手帖の立ち位置というのは、多分、御三家と言われた方々が書いていた時代まで、事実上言説の「総代理店」だった時代だったのかもしれない。その頃は、美術の話題は「みずゑ」と並んで必ず読む読者は読んで買っていたのかもしれない。しかし、特別売れた雑誌でも無かったと思う。ある程度内容もハードなところもあって、より易しくわかりやすい紹介や作品をガイドする意味で「ブルータス」や「イラストレーション」のような紙面に出てくるデザイン系アーティストを扱うようになったり、文体も「ロッキング・オン」のような文体で作品や見方を紹介するというより、アーティストの人物像や物語を紹介する書き方、"伝説"がやたらいっぱい出てきたり、"○○は死んだ(終わった)"的な書き方とか、目につく気がします。文体や内容や取り上がる作品のわかりやすさって意味では良いんですが、それで離れる読者とついてくる読者のプラスマイナスで言えば結果的にマイナス方向に向かっているような気がします。
また、小さいメディア、浮いては消える美術のミニコミ雑誌の流動化、小さい規模で複数増えていること、最近でいえばインターネットで小さな規模で速く容易に出力できることもあって、どういう媒体を読みたいと思うか?ということから、誰の文章を面白く読みたいか?ということに移ってきていて、美術手帖を必ずしも読みたいとは思わないが、興味深い書き手の記事があれば読む場合があるということにうつっていると思います。

翻訳家・批評家として藤枝晃雄のスタイルは本当今では成り立たないと思う。やり口としてはこうだ。「クレメント・グリンバーグが日本人だったとすれば!こういう」って書き方で国内のドメスティクな作品をみたり、アメリカの戦後美術を紹介する。しかし、原書であるクレメント・グリンバーグ自体の文章はなるべく翻訳しない、って戦略で著作業や大学教授をやってきた訳だが...。本当当時ならでは出来た学者業だよなと思う。

「ニューウェイブ」のアーティストの記事を改めて眺めて、紙面の紹介ってのはあればあるだけ嬉しいのだけど、「ゼロ年代アーティスト」とか本当言われなくて無くて本当よかったなぁと思う。後から恥ずかしいもんなぁ

外野的な立ち回りながら会場で北沢憲昭を初めてみました。北沢憲昭というと日本の近代絵画の研究家という印象で本も読んで居ますが、北沢憲昭の研究は興味あるものの切っ掛けとして当時の日本の現代美術の興味から、日本美術のでっち上げ感を検証する意味で拡大解釈で日本の近代美術を研究していたことを知って好感もてました。またチラリと見た人柄が、糸圭秀実(すがひでみ)のようないい加減さも感じました(良い意味で)。

東京都現代美術館の1994年のオープニング展「日本の現代美術 1985-1995」だとか、1995年セゾン美術館の「視ることのアレゴリー」など、パレルゴンに関わった作家の方が集まった展覧会もありました。逆を言えばそれらの展覧会を通して僕は画廊パレルゴンに興味を持ったのですが、そういうアーティストの年代や枠組みがあってこそ、のちの村上隆や小沢剛や会田誠の登場を準備したところもあって、もう一度しっかりした画廊パレルゴンを回顧する展覧会や書籍が出来ても良いなぁとは思います。




2008/06/19 (Thu)

flickerでメッセージが来ていた。なんか僕がアップしていた画像を引用して画像を作成したと、CCライセンスもかけてるので、引用した作品の出来がどんな作品であれ、こういうふうに使われるのは嬉しいなぁ。以前tumblerでも画像を引っ張ってきて使ってるのを見かけたことがあります。

flickrの画像は、CCライセンスのルールさえ守ってくれれば何をやってくれても構いません。細かいことは応相談。




オモロー!



















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