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    exhibition 2000 : itochu gallery, takashi yamauchi
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    こちらでは今回の展示にあたりこちらとは別のサイトにて記述されたものを転載します。全てのコメントに感謝します。



    Citymuse( from Citymuse )
    壁の絵画に近寄って、じっと眺めていると描かれたパターンは、絵の地として貼ってある市販のプリント地の模様を拡大したものだと分かる。小さな子供の日常着や、テーブル掛けに使われるようなありふれた布をキャンパスに見立て、その上に地と同じパターンを大きく引き延ばし繰り返しているのだ。プリント地は、織り目に規則正しく並ぶインクの点の集まりである事に気付くと、Liechtensteinのホールマークである拡大された印刷の点、あるいは画面を画素まで分解したように見えるChuck Closeの作品に通じるアイディアを読み取ることができ興味深い。この25歳の作家の行く末を見たいと思う。


    re( from art.mimir )
    内在的な強度というのは、あらゆる表現の根源的なもので普遍的な評価の様な気がしますけど。流れ的に(?)そこに”疑い”が入った。って感じがするんですよね。だからそこに狙いはあって意図する所なのかな。>意に反して”流行って(大衆向けになって)しまった”<引用的なものは反復使ってみたり文脈的や哲学めいたりもしてますが、意図的には「入れている」「入れておく」だと思います。現代美術として成り立たせるためのキーワードみたいなものじゃないですか。「意に反して大衆向けになってしまった」は「意図してるかは別の様で」「狙い的には大衆である。」現代美術が持っている大衆向けで無いところを茶化してみせて(あるいは真面目に)大衆を目指してみる。という所じゃないでしょうか。かなりうがった見方ですけどそういう波長を感じます。という意味では時流を掴んでいるのでは無いんじゃないですか。現代美術の文脈の中で何が受けいられるだろうとした場合、内在的なものや時代は置いておいてシュポールあたりが、求められるかな?ただそのもののでは無くて「うさちゃん」とか「アロハ柄」とか大衆の波長に合うところに合わせて見るという「持ってきかた」なんではないでしょうか。戦略的だと言う言い方にもなりますが、別にそれがおかしいというわけじゃないのです。ただ、それを、そこで終わらせない所に作家の「内在的な強度」があると思うわけで、言い換えれば「作家の顔が見えない(本心的なもの?)=個性」わけですけれど。その「内在的な強度」にすら疑いを持ってワザと排除しているならば、作品としては評価出来る部分もあるかなとは思います。個性的なものは「キャラ」というビジュアルで押さえておくとかが狙いなんじゃないかな。


    re( from art.mimir )
    そういえば某漫画引用作家が展覧会に違法物を出品して見せて、法的規制で表現出来なくなると。美の追求を理解出来ない社会批判のごとく言って見せたりするわけですが。始めからそれを意図して違法物を作成して、法的規制があるのを見越して、過去の巨匠がそうであった様に「自分もそうである」と演じて見せ共通点という話題性を「押させておく」ってのもいかんせんキツイですが。「過去の巨匠もそうであった」なんてのは常套文句になってますから。常套文句狙いってのも見え見えなんですね、それが明らかに「分かる_様_な作品なわけで」逆にそれが「おもろい」んじゃないですか。そういう「美の追求ナル」反骨心的なものも茶化すとおもしろいみたいな。真面目な顔して「美の追求だ」とか?「芸術だ」とか?大衆から見れば滑稽な所もあるわけで、そこを茶化して見せれば大衆ウケするみたいな。


    非合法の展評屋 畑山セバスチャン( from art.mimir )
    今月号の美術手帖の168ページをめくっていただきたい。あの糞(山内ナム)が、これ見よがしに行った個展についての展評が載って(しまって)いる。あの糞(山内ナム)の母校の先生の述によるその評はまるで牧歌のような、詩のような言葉で綴られており、おおよそあらゆる書き物の中で最も下らないものが美術展評のたぐいのものであるとの証明でもある。その評には、「山内による何処にも無いお部屋」との記述があるが、私(畑山)に言わせれば、そのような部屋は何処にでも在る。つまり幼稚園や保育園は何処にでも在るのだ。 また、その糞(山内ナム)の作品をポップでも無く、ネオジオでも無いとしながらも、結局それが何であるのは述べていないが、ならば私(畑山)が代わって述べるほかないだろう。少なくとも評者が「ガンバレ!」などとエールを送ってしまっている評というものを私は初めて目にするが、恐らく評者にしてみれば、「こんなもん他に書き様が何も無いんだ!俺にこいつをどうしろと言うんだよ!」ということなのだろうが。

    あの糞(山内ナム)は、現代美術という社会的に隔絶された「ゆりかご」の中でゆらゆらと揺られながらも、ドサクサに紛れて何がしの自己評価をでっちあげようと目論んでおり、その作品はいずれも現代美術史上著名な作品の盗用である。引用や借用や援用では無く、あくまでも盗用であり、まがい物である。ほとんどマイク・ビドロである。というか香港の偽ブランド業者だ。私はこれと寸分違わぬものをシェリー・レヴィンとかいう作家の作品に見た事があるし、遥か昔のシュポールなんとかという南仏のグループ、もしくはジャスパージョーンズの諸作品でもいいだろう。とにかくこの糞(山内ナム)の盗み方は見えすいており、美術野郎変集長コバル女史が「バレバレじゃん」としたのも肯けよう。そういえば近年ベンチャーズよろしく来日したシュポールなんとかの連中の回顧展が話題になった時、この糞(山内ナム)はコバル女史の掲示板上で声高々にこう叫んだ。「やっぱり僕の見所は間違ってはいなかった!」と。いったい何が言いたかったのだろうか。 題名にある「このうさちゃんは、このうさちゃんです」とか、「このレゴブロックは、このレゴブロックである」と言った同義反復も何を今更と言わんばかりに過去に多くの作家によって繰り返されたロジックである。それにしてもウサギ柄とは。私は以前この糞(山内ナム)の作品を「女学生の柄パン」としたが、このウサギ柄に至っては、もはや小学生低学年の女児の好む絵柄であり、ほとんどヤケクソといったところであろうか。個展会場の天井からぶら下がる飾り物もインスタレーションなのだろうか、まさしく幼稚園のような有様である。 今後、あの糞(山内ナム)の作品がいかなる方向に進むであろうかは、その全てを盗用によって得ている以上、既に予測済みである。今描いている絵柄の上に、その下地となっている図柄とは何の関係も無いようなイメージを無根拠に描き出すことだろう、それこそデヴィット・サーレの様にね。そしてその時こう叫ぶのである「俺はやった!ついに追求していたネオ・アカを完成させたよ!」とだ。ネオ・アカとはネオ・アカデミズムのことであり、あの糞(山内ナム)が発案者として提唱しているという「新たなる絵画の方法論」である。美術野郎掲示板上でネオ・アカで美術界に革命を起こしてやると、口角泡たてて熱弁ふるっていたものであるのだが、ただ単に現代絵画が試みてきた方法論の推移について、いかに無知蒙昧であるかと自分の阿呆ぶりをみずら露呈してしまっているに過ぎない。マジづらでやっているが故に滑稽でさえあり、ほとんど無知の涙といったところだろうか。

    個展を終え、その評がこともあろうに美術手帖というメジャー誌に載ったということで、あの糞(山内ナム)は有頂天である。もう、いっぱしの作家であるとして有頂天である。からしてその言動は今まで以上に調子ぶっこいてるものとなる。美術野郎掲示板うえに先生づらして現れれば、いきなりコバル女史に「美術野郎のデザインもう少し何とかならないかな」などと注文を付けてしまい、「だったらナム君がなんとかしてよ!」と女史を怒らせ、「ナム君、そりゃないんじゃないの」と、カトズンを始めとする皆から反感をかっていた。いったい何様のつもりだといったところだろうが、そもそも、あの糞(山内ナム)は以前からそのような不快な言動が目に余り不愉快極まりない。かくいう私は、あの糞(山内ナム)を殴ったことがある。以前運営していた美術チャット上にて突然やってきては勝手放題のうんちくをたれ、「ここにいる人達は異常だ」とし、運営者の私を見るなり「あんた誰なの?」と、のたまってきたあの糞(山内ナム)の顔を三度ほど殴ったことがある。殴って当然であろう、「さかぎしよしおう」だってそうする筈だ。

    これ以上書いたところで腹立つだけなので止めときますが、この現代に画家としてやっていくうえで何より必要になるのは「インテンション(内在的な強度)」である。しかし、あの糞(山内ナム)の場合には「インポテンション」しか持ち得ていないようだ。これじゃあダメだろ(笑)。


    南青山REPORT -謎の男- ( from Bijutsuyaro! )
    山内崇嗣展(伊藤忠ギャラリーにて、7月21日から8月23日まで)

     両面コピーでつくられた個展告知の三つ折りビラには、工作用のやまおり、たにおり、きりとりせんの指示がある。その通りに組み立てると、作家の顔写真の口がパクパク動かせるようになっている。掲載された作品写真も独特で、「この朱色の格子模様はこの朱色の格子模様である。」などと、人を食ったタイトルが付されている。

     個展会場(伊藤忠ギャラリー)に着いてみると、驚いた。一階の通りに面した大きな窓のカーテンは、作家が日常着用しているシャツ12着をボタンでとめ合わせてつくってある。天井からは学芸会でよく使用される紙テープの鎖が垂れ下がり、部屋の奥では「スミッソン・ライト」がうきうきとしたディスコティックな光線を発散している。
     また、作家の着古したTシャツが、ハンガーではなくストレッチャーの上に被せられ「脱構築」している。ソファの代わりに、レディメードの絨毯パーツを組み合わせた軟弱な「chairs」があり、腰掛ける観客によって会期中に次第に破壊されていく。本来なら硬質なスチール、プライウッドなど硬質素材でつくられる筈の「ミニマル」な造形が、たおやかに姿を歪め、崩れ落ちていくのである。

     二階に上がると、一階とは全く異なる三原色中心のインスタレーションがあった。平面作品では、柄物生地やテーブルクロスを支持体として、合成塗料、クレヨンまたは油彩でその地模様を拡大した形象(模様)が描いてある。立体作品では、数多くのレゴ、ビーズ等を用いて、レゴ、ビーズ等の形を大きく組み上げてある。
     作品には、いずれも一見トートロジック(同義語反復的)な、「この白いレゴ・ブロックは、この白いレゴ・ブロックである。」等の題名が冠されている。作品のミニマルな形体と相俟って、フランク・ステラの"You see what you see."という発言が想起されてくるが、こうした美術史的「常識」を作家は見事に覆し、図画工作的手業によってモアレとイリュージョンを発生させているのである。

     コンセプチュアルな匂いにも拘わらず、作品はポップかつキッチュで美しい。テーブルクロスの柄のような「抽象画」、木枠にシャツを被せた「脱構築」といった、一般大衆が近現代の泰西名画に対して抱くリアリティを共有し、かつ逆手にとっている点も面白く感じられた。


    お返事 投稿者:もえぎ  投稿日: 8月27日(日)11時20分47秒 ( from knock on wood )
    こんにちは、展示会行けるかなあとずっと思ってたのですが丁度外苑前に用事があって行ったのでまだやってるかなと思って覗いてみたら丁度その日まで!でラッキーでした。なんかガーリッシュな可愛らしい展示で結構意外、自由な雰囲気もおもちゃ箱ひっくりかえしたみたいで愉しかったです。特に2階が好きかなあ。(一部抜粋)


    転ぶ 投稿者:やま  投稿日: 8月15日(火)23時47分08秒 ( from 批評日記WEB )
    山内崇嗣展(伊藤忠ギャラリー)
    どれも面白いが、特に気に入ったのが、この2つの青ビーズは、この2つの青ビーズであるとかいうやつ。何か昔のRPGの建物みたいでイカす!この思い切りに、新しさを感じた(一部抜粋)


    池松江美 ( from A diary, a woman alone. )
    804
    そのあと急いで青山に向かい、伊藤忠ギャラリーで開催している山内namu氏の個展へめぐちゃんと行きました。namu氏はムサビの同窓生。個展会場は伊藤忠関係のヤンエグや株主や外国駐在員と思われる人もたくさんきていて、こんな良いところで個展をしたら即パトロンゲットできそうです。作品は、わたしの頭が悪くてコンセプチュアル関係は全然わからないのですが、洋服をキャンバスに貼った作品や、レースのような作品がかわいかったです。(一部抜粋)


    [DJ MOJI] (00/8/13 02:02:30) ( from shortcut )
    伊藤忠ギャラリーの個展、まったく素晴らしかったですよ。ヴィデオもフィッシュリ&ヴァイス(注2)みたいでカッコよかった。最近はアートはあまり見ないんですが、アート魂に火がつく思いでした。

    ネオアカ=ネオアコ+ニューアカ、というのはその通りかもしれませんね。モロ現代美術、みたいなアカデミックさよりはカルチャー側に近いんだけど、カルチャーといってもトーキョー・ポップではなくて、ネオアコっぽいさわやかさがある。そのさわやかさというのは、日本的なポップよりもむしろ実はモダニズムに近いわけで、そこらへんの不思議なバランスが新鮮でした。

    モダニズムをふまえながらも気負いがなく、日常的でありながらもポップ的ないやらしさがないという、namuさんの「さわやかさ」はとても新鮮だと思います。みなさん、ぜひ見に行ってください(場所(場所などは、7/21のnamuさんの書き込みにあります)。
    (注1)あめとむちのビデオ。「あめとむち」とは、赤田賢治と竹村歩による金沢のお笑いコンビ、山内崇嗣は、影のメンバー。テレビ金沢「じゃんけんぽん」に登場。金沢竪町ダイヤモンドホール等で不定期的に活動中。あめとむちのビデオとは以前スカイパーフェクTVの為編集されたビデオ、コントビデオとシュールなオモシロビデオが両方入っている。8/4のレセプションでは山内崇嗣レピゼン「あめとむち」と言うことでオモシロビデオの一部が紹介された。


    瀧坂亮 ( from omo-8 )
    000805
    伊藤忠ギャラリーで開催中の山内崇嗣(namu)さんの個展の作品説明会に行く。

    オレンジやピンクやクリーム色の千鳥格子やアロハ柄、古着やチープなテーブルクロスをモチーフにした作品には、「ピクニック感」とでも言うべきチャーミングな感じがあった。色紙の鎖がぶら下がった会場は幼稚園の「お楽しみ会」のようでもある。ボロいTシャツを枠にかぶせて(というか着せて)、ワッペンだけ油彩で描いた作品を好ましく思った。

    理論的なコアはシュポール/シュルファスとかってモダニズム絵画の議論につながる問題意識にある、らしい(よくは知りません)。確かに、単なる「キッチュ」の収集という感じは不思議とあまりしなかった。が、カワイイっぽい。そうした、美大の教育プログラム(アカデミズム)にどこまでも整合的なのに、結果としてそこからズレたワカモノ感があるものを、主催者は「ネオアカ」と呼ぶことを提唱していた。

    しかし「ネオアカ」という語の響きは、「ニューアカ」を想起させずにはいられない。それが個人的には少し気になってしまった。80年代初頭に流行ったような「ニューアカ」=「新しいアカデミズム」は、現にあるディシプリンを越えて、軽やかに知と戯れることをスローガン化したと思う(自分が体験したわけではないが)。しかし、ディシプリンを越えるというのは金科玉条のようでいて、結果的に、ディシプリンが確立する前に単にそれを無視するだけだったりするという問題を含む。発信源では「学を究めた人がクダケる」とかってことだったのが、効果としては、何も究めぬバカに「このままでいいんだ」とエクスキューズを与えるだけに作用もする。

    いま「ニューアカ」と言ったとき、タコツボ化したジャンルを越えて開かれようって意識とか、社会的な効果として、アカデミックとされたものを(ファッションとしてではあれ)広くばらまくきっかけとして機能したことの「可能性の中心」を評価できるのと裏腹に、単にバブリーな80年代消費文化とかっていうネガティヴなイメージも強いのもまた現実じゃないかと思う。そういう含みを引きずった語を「新しい」動きに与えてしまうのは、なんとなくもったいないような気もしてしまう。もっと、それ自体で言えるようなフレッシュなキーワードはないものか、とも思ってしまった。

    まあ要はキーワード抜きに観ろってことかもしれない。なかなかチャーミング。1975年生まれの芸術家の初の個展は、8/23まで続く。


    眞 (URL)08/05/2000 (Sat) 08:01:30 ( from chim chim cherry )
    チムさん、お久しぶりです。

    山内崇嗣展 作品説明会
    仕事立てこんでいましたが、掲示板で開催をしり、出かけました。
    一階の階段の脇に置かれていたミラーボールはその光含め、キッチュな現代を表象し、面白かった。多分それは「超能力学園Z」といったB級映画を楽しむ志向につながると思います。葦の言葉に言葉引用しました。
    http://www.alpha-net.ne.jp/users2/morimt/ashi3/index.html

    また、作品説明会が始まる前の笑い声とクラッカーの音もなかなかよかった。一種の衒いからの声を電気的に変容させた説明はその確信犯的な自己主張とあいまってなかなか面白かった。

    artの枠組みを易々と壊し、再構築するところ面白いです。ただ、山内さんの平面の作品、布を使ったもの、抽象表現を好む私の嗜好から若干ずれていて、またその質感もちょっとという感じであまりぴんときませんでした。(多分、年齢による感覚の相違かも)

    一人一人に渡されたクラッカーをならし、手順相違して、山内さんは紙吹雪を散らす。食物は用意されていなかったので野球帽の中にお金を入れ、ピザの種類を選び、注文する。配達されたピザ、テーブル上はスペースなく、私が指し示し、床に置かれた。それらの行為含め、楽しい夕べでした。あ、もちろん、ピザも美味しかったです。

    ITOCHU GALLERY
    http://www.itochugy.co.jp/ から、場所を再確認し、でかけました。てっきり、本人が掲示板にpostした思い、山内さんにその旨伝えたところ、違うとのこと。
    namuさんのpostなのですね。情報ありがとうございました。


    チムさんの掲示板は奥深いです。


    【18】なむ君個展(伊藤忠ギャラリー) 2000/7/23(日)03:23 - kobatti ( from Bijutsuyaro! )
    私、なむくんの個展みてきました。感想を書くとだね。。

    どーしてがんばってもやっぱフランス人(しゅぽーるしゅるふぁす)にはなりえないアジア人ってかんじがした。 でも、油彩で上に描いてるんだろうけど、あれがちょっと雑かなー???なんて私個人的に思ったけど、そういうもんなのかな?油彩ってのは。

    でも、ぴしっとかいたらそれでまた面白くなくなりそうだし。その辺難しい部分ではあるね。

    あの作品はある程度の距離が(見る位置)が決められてる感じがする。(プリントと油彩がちょうどお互いがバランスよく見える位置ね)あれ以上近づいてみてもいまいちだし、あれ以上とおいと意味不明になるし。その辺のなむくんの言い切りが面白いかもと思ったり。
    そんなかんじ。
    まっ、時間帯がなかなか難しいものあるけど、、、 全然関係ないけど、私浴衣を衝動買いしましたので、今度ひょっこり浴衣で現れるかもしれません。