2008/01/23 (Wed)
土曜日ぐらいに幾つか展示をみたりした
佐藤万絵子「受けとめるものたち」@loophole
2008 1.12(SAT)〜2..9 (SAT)
14:00〜18:00 日 月 休廊 closed on Sun. Mon.
佐藤さんは大学の同級生で、いろいろ美術の活動をやってる。
ハチクロで言うところのハグちゃんを地で行ってる人だと思う。
佐藤さんは、こう何というか、絵の中にどうやって入って描くか?みたいことをやっている。絵と一体化するように指で絵の具をなじっていて、描く紙も、洋服をまとうように、建物に住むように、描くようにしていて、制作場所が展示場所という方法で制作している。
これは多分言って良いことと思うのですが、学生時代は離人症と診断されていて現在は治療は受けていないと思う。
僕は学生当時そういうことを全く知らず彼女を通して知った。
彼女から聞くに、どうも食べ物が全て蝋細工に見えて食べる気がしないとか、知覚や認識が通常の人とは違っていたようだ。
また、蝋細工に食べ物が見えたとしても、見えなかった時期も知っていて、蝋細工みたいな食べ物に感じたと言えたのだろう。どうも、それで彼女の知覚では安心して触れられる感じられる物事が通常からずれていて感じていたらしい。思春期青年期に起きやすい症状らしい。性格的に躁鬱が激しいとか虚言癖があるとかそういうことは全くなかったと思う。あくまで知覚のずれみたいものだったと思う。
絵を見る経験は、ものによっては絵の中に視線が入って経験することがある、大きな絵とか緻密に細かく描かれた絵とか、その時自分の姿は入り込んで消えてるんじゃないか?と思うことと、実際には入れないこと、その絵を見る経験と、当時の症状が結びついて彼女の作品の動機は産まれたはずで、大学時代は押入のような場所に、壁からはがれたような紙を貼ったり、その中に紙に小さい絵を置いたり、何枚も紙がはがれたりぶら下がったりした、箱庭的な制作と展示方法で、今はそういうことを延長してギャラリーでやっているようです。
彼女の事情は兎も角、展示をパッと見ると、なんというか病院のカルテと症例を見ているような?なんというか検体のサンプルみたいに見られるのは容易に想像出来るし、例えばロックミュージックとか、薬物の投与で発明された演奏法はあるけど、薬物を打って演奏すれば良いってもんじゃないという曖昧なところに彼女の作品もある。
「なんというか感覚がズレてるひとが何か作って感覚が面白いねー」とか簡単にいえるので、そういうときに、これが、美術館やギャラリーで展示するならアートでジャッジできる方法論や歴史性とか何かこうそういう指針が見えるような感じるような作りは何かな?と彼女の展示をみると何時も思う。
彼女の場合、症例が原因の効果がアートになるか?ならないか?というところが面白いのだろう。クオリア(笑)
彼女の作品を見ることは、宮沢賢治の「注文の多い料理店」の主人公になった気分がする。展示会場も、この履き物をはけとか、触ってはいけないとか、奥にもありますとか、洞窟のような展示場で注文を受けて帰ってくる。
「注文の多い料理店」という話は、食べ物が主人公で、怪物か二重の口を開けて消化しようとして、食べ物が吐き出される話で、洞窟の入り口という怪物の口に入ると、いろいろ消化しやすいように説明を受けるのは怪物の消化酵素のようなものだろう。怪物にとっては怪物の健康を乱すものは吐き出されるもので、彼女の作品を見た人も最後は出て行き居座ることはない(消化されない)、怪物には二つ入り口があって、洞窟の入り口と、その先に本当の口がある、又彼女の感覚にも普通に美術大学に通った人の知覚と認知証的な知覚と曖昧な二つの知覚があると思う。彼女が口で味わうように作品を見る人を扱う、そして見る人を吐き出すように帰させます。
彼女の理想的な展示方法は、美術館やギャラリーといった不動産の会場を一時的に借りて制作して展示するという現在の方法より、何か何処かパーマネントな佐藤ビル、佐藤ハウスみたい建物や洞穴を手に入れて、永久に増改築させ続けて客人を呼ぶとと面白いのだろうと思うけど現実的にそれは難しいとも思う。
>東京都写真美術館 日本の新進作家 vol_6 スティル/アライヴ
田中功起くんとかが展示してるのでいこうと思った。
田中くんは美術雑誌の編集者経験もあり美術のことを見る立場で勉強しているなぁと思うけど、あんまりアートになるか?ならないか?は、佐藤さんと違って、そういう視線で作品を見ると結構つまらなくなると思っていて、そういうことは考えないでみようと思っている。
展示廃材をつかってボーリング場のような場所を作っている展示。映像とか流れていて、玉が、発泡スチロールや、ヘルメットをあわせた玉とか、ピンもエビスビールとか
ギリシャ神話のアルゴ船の構造そのままで素材が古い材木から金に変わる感じ。
それで、まぁそこにあるものを使って組み立てた、あるままの展示というか。「そういうことが良くもなく悪くもなくそういうものが只そこにある」みたいものを見せるのがアート的な視線で見る彼の作品なのだろうけど、そういうことは僕は( ´_ゝ`)フーン なことだと思っている。
それより会場で彼にあって聞いたのは、彼の映像作品がyoutubeに自分でアップしたと言っていたので、検索したらあった。
http://www.youtube.com/profile_videos?user=kktnk1975&p=r
"everything is everything"
この作品が彼の映像の中で一番良くできてる気がする。
「ちょっと可笑しい」ときがあって面白い。感情的に、可笑しいとか、笑えることには精度があって、話題や話方やタイミングや事柄が、すこしずれると"可笑しい"となって、普通だと感情をスルーするとき"可笑しくない"と判断される。
より大げさになれば、大笑いとか、怖いとか、神々しい、泣くとか、そういうことになるのだろうけど、そうそういった低い感情の精度を田中くんは見いだそうとしてるようにおもう。
楳図かずおが感情について凄いことを以前から言っていて
「同じ事柄でも追う立場だと喜劇、追われる立場だと悲劇になる」
といった意味合いの話をする。
田中くんの作品も、映像で起きてる事柄も、見ていてちょっと可笑しいと感じても、見方によっては、ちょっと切ないとも思えれば、相当感情演出の精度は高いように思う。
可笑しい瞬間ってどういうときか?思うと、彼の好きなダウンタウンじゃないけど"わらってはいけない"ときが可笑しいことが起きやすいと思う。お葬式でオナラとか。逆に、笑って下さいって場所でオナラしてもそういうときにあまり面白くはない。それはお葬式ではオナラの人を能動的に笑う場所(自分は突っ込みになる)、笑える場所ではオナラの人に受動的に笑わせられる場所(自分はボケになる)なのだから。
僕は彼が頭良いなぁと思うのは、
「展覧会やってますよ」と紹介して行くと「ちょっと面白いことやってた」って感じるように組み立てが出来ていて、それがもしも
「ちょっと面白い展覧会やってますよ」と紹介されていれば「糞つまらなかった」と思って帰るだろう(そう感じることは多い)。そういう見せ方のセンスは高いなと思う。
彼の作品は面白おかしいエンターテイメントの作品ではなくて、どんなとき面白く感じるか?というエンターテイメントを分析するところが彼の作品の探求や見せ方だと思う。他方で何故これがアートなの?と考え出すとドツボになるように出来ていて、その面白さは無くなる、難しいことが好きな人や、美術に対してドMの人はそうやって見ると良いと思う。
★
田中くんの展示会場で土曜日に、"ホース"というバンドが同じ開場で演奏をするとのことで見てきた。
omo*8の瀧坂くんの話にも良く聞いていて"ホース"は何度かチラチラと見てきたような気がするけど、ちゃんと聞いたのは初めてだった。
おせいじにも上手い演奏とは言えないけれど、自分たちで作った曲をしっかり最後まで演奏しきって、聞いていて楽曲を聴いた気分になれる。そういう意味で、自分たちの音楽が書けて演奏出来るというのは凄いことだなと思うし、そういうことがしっかり見せられる演奏は、上手いなぁと思った。
日曜日に、ICCのデモライブをネット中継で聞いていて、場所が場所だけに、現代音楽風というか、サウンドアート?っていうのか、なんというか、見たらわかるスタイルだけど形容しがたい音楽が演奏されていて。作者も、楽器を作りたいのか?楽譜を作りたいのか?音楽を作りたいのか?良くわからない形式の音楽を聴いていて。
そういう音楽は、こう楽器のサンプル音を聞いてるようで、楽曲という感じはしないもの多かった、楽器としての完成度も弱い感じがした。。。そういう意味でボーダレスで面白いととることも出来そうだけど僕にはやや難しかった。
改めて、ホースの方達が演奏してたことはちょっと凄いことだったかな?と思い返したりした。
おくやみ
ところで「300日画廊」「時限美術計画 / T.L.A.P」「Gallery≠Gallery」を主宰されていた画廊男さんこと佐藤洋一さんが、自分で命を絶ったようです。
「300日画廊」は行ったことはあります。その時にギャラリーについてお話を受けましたが個人的な付き合いはありませんでした。
http://blog.livedoor.jp/offtrap/archives/51484897.html
http://kentarob.exblog.jp/7122599/
300日画廊にいったことを思い出すと、やや自分より上の人の文化だなぁと思う文化圏だった印象があります。一括りにできませんが、どことなく、300日画廊や東大駒場寮や吉祥寺のヘーゼルナッツなど
ひと的に似た印象を持つのは、だめ連とか、外山恒一さんとか、ヲダマサノリさんとか、なんというか90年代のヨーロッパのアクティビズムや社会学とか参考にしながら、アートにも触れる態度というか、何というのでしょう?佐藤洋一さんもそうオルグる印象もなかったのでなんとも言えませんが、少し年代が上の裕福でないけど頭も良く難しいことが好きなで文化的な方々。
そういう方々の文化に特別共感や関心はありませんでしたが、そういう文化はそういう文化で勿論あっても良いのだけど、どこか最近あまり話題を聞かなくなった印象もあり、こう亡くなったりしたと聞いて、そういうえば?と思い出すような環境は、あまり好きではありません。
佐藤洋一さんのご冥福を申し上げます。
佐藤さん経由で
http://blog.livedoor.jp/offtrap/archives/51484897.html
>阿佐ヶ谷の西瓜糖が3月23日で閉店する
ことも知りました。
西瓜糖は80年代末の東京の若いアーティストに向けてやってた貸画廊+カフェで、よく年代が上のアーティストの略歴でみつけて知り、何度か行ったことがあります。
リチャ-ド・ブロ-ティガン「西瓜糖の日々」 からタイトルをとったのだろうと思いますが。「西瓜糖の日々」を読む前に、ギャラリーの西瓜糖に行っていた気がします。
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