2007/06/07 (Thu)
日曜日、駒場野公園で菱山忠三郎せんせいの自然観察レクチャーを聴く。 菱山忠三郎さんはお名前だけ聞いていて、ちゃんと書物を読んだことがないのですが、葉痕・冬芽の有数の専門家で、時期が初夏なだけに、冬芽の話題はなかったけれど、ドクダミの花の白いがくが、必ず4枚あって、大きいモノ、小さいモノ、中ぐらいのものが2枚あり、大きいモノと小さいモノを合わせた面積が、中ぐらいのものが2枚の面積ではないか?ということを言われていて、そういう視点で気づいたり考えられたり出来るのは面白いなと思いました。
菱山忠三郎せんせいの著書「樹木の冬芽図鑑」は僕も気になっているものの現在廃盤で今後増刷の見込みが少ないこと、本人の著書のなかでも相当気に入られてるようで僕もお話を聞いた後気になっています。 (→古本で注文した。)
菱山忠三郎せんせいのフリーのレクチャーは偶に聴くのですが、事後的なことも多く、定期的なものがわからず。 調べるところ立川の朝日カルチャーで講座を持ってはいるようです。 朝日カルチャーの講座は高いなぁと思いつつ、結構な高齢なかたなので、こういう出会える機会を逃すと一生機会は無いかもなぁ???と思うと、講座を受けられる機会のことは少し考えてしまいます。
菱山忠三郎せんせいのお話で、なんの種類の木か忘れたけれど 種子を立派に実らせるために出来ても用途の少ないつぼみは、自分から切り落としていくことがあるそうだ。その話を聞いて独身と思しき叔母さんが 「わたしらもそんなものね、ワハハ。しかし長生き出来て良かった。」みたいに話されていた。 本当にそういうことはあるんじゃないかな?と薄々思っている。 植物に自家中毒ということがあり、ある種が敷地の範囲で増えすぎると、自分で枯れだすことがあるらしいと聞いたことがある。 そんなように人間も自然の一部なら人口が増えて精神的・健康的に可笑しくなったり、自殺が増えたりってのは、自然の摂理なら当然の様な気もするけれど、それすらも乗り越えられる利用する人も出てくることもあると思う、そんなことこそ人間の生命力のようにも思う。 人間は自然の一部であるにも関わらず、自然の力を利用して乗り越えようとする生き物というか。。。 そんなことを漠然と考えてますが、植物の詳しい生態と、人間が増えて不安になることがハッキリ関連づけられないので、自分でも発想が電波だなと思う。
先週、伊藤若冲など見に京都に行きました。三宅八幡宮、福田平八郎展、重森三玲庭園美術館、化野念仏寺、祇王寺、時雨殿、嵯峨野トロッコ列車あたりに行きました。その話題はいつか書きたいです。
更に、その数ヶ月前に金沢・福井・名古屋に行ったんですが、、明治村のこととか纏めて、いつか書きたいなぁと
ギャラリー・カウンッタックに来られた方々ありがとうございました。
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