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yamauchinamu

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蜜のあわれ/室生犀星

Last Update : 2003/02/03

蜜のあわれ/室生犀星を読んだ。話は犀星が、金魚をませた幼な子とみたてて問答し、その幼な子が、犀星の元カノと遭遇するが、犀星は逢いたいだか逢いたくないんだか微妙で結局逢わない話。すべては、犀星の妄想だけど妄想の産物が見たモノを自分が確認出来ないと。
 昨晩だったかTVで、やっていたけどシックスセンスの中での登場人物の出会い方、すれ違い方に似てる気もする。
 室生犀星は、「幻想文学」ってジャンルの本棚に扱われるようだけど、これは、僕には良く知らないわからないので、犀星に限っていえば、かなり日本的なシュールレアリズムなんだなと思った。(僕は日本的なシュールと、西洋的なシュールをかなり別物と考えている。詳しくはこのページの下の方を参照。)
 要は各人物それぞれの「言語」というか見え方考え方対話方法があって、自分の意思をストレートに伝えることは出来ないし、ストレートにそこにあることも出来ないのだけど、見えるように思うこと、伝わってると感じて居ることが、歪さを持ちながら人々がすれ違い噛み合っていくと言えば良いんでしょうか?
 あと犀星が書いたあとがきで、映画「赤い風船」(これもまた大好きな映画です。omolo.comの携帯の画像は、そこから拝借。)を遠からず近からずモチーフにしていて、と書いていて驚いた。確かに主人公が、風船を!金魚を!見て思う想像力には近しいモノを感じるしな。なんだ箱庭的な宇宙といっていいのかなぁ?盆栽を見ると大庭園として感じるとか。作品が勢力的に出来たころの熊谷守一もそういうところがあったが、実際に行動する範囲はかなり狭いものの大きな世界を見る感じには、ただ老人の想像力だからそれができて凄いとかいうものではなくて、何か、そういうことはそういう人であっても無くても出来ることではないかとも思えるし、何か一つ誰にでも何処でも伝わる判断基準というか枠組みや、世界感がある感じを受けるけど、それが今上手くいえない。