パーはグーよりも強い。このルールの根拠は何か。一般的な解釈によると、パーは紙、グーは石のシンボルであり、紙は石を包めることからパーはグーに勝つとされる。
しかしこの説明に、幼いころの筆者はどうも納得いかなかった。石は紙を破ることができるじゃないか。それに、たしかに紙は石を包めるけれど、じゃあ、包み紙のほうが中身よりもエラいというのか──。
いまでこそ良識的な市民生活を送る筆者は、根拠が不明確なルールも「慣例」としてあいまいに受け止めているが、当時はジャンケンの基本ルールさえ飲み込めなかった。たぶん頭が悪かったのだろう。このような記憶を思い出したのは、他でもない、昨年の夏に山内崇嗣の個展を見たからである。
うさちゃんの柄の上にうさちゃんを描くって、いったい何ですか、それは? 既製品(うさちゃんの柄の生地)を作った者の立場はどうなんですか? 美術とかいうものの文脈や制度を前提にすれば、そりゃあ、支持体と絵画の関係とか、オリジナリティ、表徴、トートロジーとか、そんなキーワードで説明できるのかもしれない。たしかに山内の作品は、<美術理論>なるルールを適用して接することも可能だ。そして、これらのキーワードはある程度の理解を促すことだろう。
ただし、ある程度どまりなのである。従来のルールに基づくだけでは、十分に山内作品を把握することはできない。わかったつもりにはなれるけれど、本当にわかったとはいいきれない。おそらく山内当人さえも、なぜ「うさちゃんの柄の上にうさちゃんを描くのか?」と根拠を問われれば、取り繕った回答しかできえまい。というのも、彼の作品は理論に裏打ちされながらも、直観によるところも大きいからだ。
理論と直観を併せ持つ強みが、山内崇嗣にはある。彼はグーのように強固な理論の持ち主であり、そしてパーである。さらにいえば、彼の作品にとっては、グーとパーが「あいこ」なのである。(新川貴詩)
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