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yamauchinamu

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僕は万博に行きたい。

Last Update : 2004/01/17


 僕は大阪万博を知らない。いった人の話さぞのっぴきならない風景が広がっていて楽しかったそうだ。勿論、上野であった万博も知らないし、パリ博も知らない。聞く話、万博とは世界各地の文化や技術や賢者が、圧縮されていて、そこに行くだけで、世界一周したような知恵と経験と遊びと出来事に出会えるらしい。それが、僕の「万博」についての想像。
 83-84年頃は、セラミックや形状記憶合金やキャプテンシステムなど、不思議で新しい技術が好きだった僕が好きだったアニメは「ミームいろいろ夢の旅」、なんでも筑波学園都市というところで日本の凄い技術が集まっているらしい、だけど専門家しか入れないのでどうしたら良い物かと、その番組を見て思っていた。そののち、その番組で筑波万博というお祭りがあってそこでその筑波の技術に触れられるらしいと番組で知った。
なんだか、新しいモノ好きの父も筑波万博に乗り気で、少し分厚い筑波万博の図鑑を買ってきてくれて、遊園地みたいな夜景の写真や、燃えない紙、濡らすと色が変わる紙などに、なんだかワクワクしたもの。
 夏休みが始まり、家族で万博に行くことが決定した、確か予定日は8月下旬、開催してから万博で毎日頭が一杯、「エキスポスクランブル」という筑波万博の中継番組をみて毎日過ごす、この番組で司会をやっていた、とんねるずという人たちも凄く面白かった。
 金沢からバスツアーで行く万博旅行だったはず、会場近くのドライブウェーに止まりバスの休憩に入る、そこでは五月蝿いくらい五木ひろしの科学万博音頭がかかっていた店頭では納豆ばかり売っている。僕のイメージしていたTUKUBAじゃ全然なかった。もっとダイオードがキラキラしたお土産や、ナウい音楽がかかっていないと当時の僕には許せなかった。そこで、初めて筑波に嫌な予感を感じた。
 会場に着いた。酷く混雑していて行きたいところ何処も2−3時間待ち、結局会場で見たのは日立館?で、赤青メガネでないメガネで立体映画をみたこと、21世紀の僕宛に手紙を書いたこと、あとメダルに名前を打ち込んでキーホルダーを作ったことぐらいで、それよりも良く覚えてるのは只熱くて疲れたということ。あとツアースケジュールの為、公開スタジオの会場でとんねるずも見ることは出来なかった。なんだか、会場に行ったけど催し物の内容はは殆ど分からず、なんだったんだと思って帰ってきた。

 ある時期、任天堂ディスクシステムで「夢工場 ドキドキパニック」にはまっていた、そのゲームはゲームとしても面白かったけど、なんでも東京で筑波万博の続きがあるとかなんとかで、そこが舞台のゲームなんだとか?って「ファミマガ」や「まるかつ」、説明書にもあったし、テレビでもイマイチ何をやっているかわからない。家の人も話題にしない。そんなある日の夕方、街の歩行者天国で何か福引き券をあてる場所があった、特賞は夢工場に日帰りバスツアー!列のその付近には知った顔のクラスメイトが何人か、どうやら福引き券を持った人が殆ど来なくなって特賞は、まだあてられずクラスメイトがループするように順番をつき直していた。僕もその列に加わった。なんども列をつき直しクジを弾き直し、特賞が当たってしまった。そこで夢工場に一人で行くことに。
 到着したけど結局どこにいって良いのか良く分からない、アトラクションも渡された小遣いでは高いし食べ物のお土産も全て高い、お土産と言っても何か後で、夢工場が楽しかったとか良い記念になったと思うモノが何もなく、なんだか映画のスチール写真屋さんでチャップリンの写真でも買う。なんとなく当時僕の中で、衛星放送や名画座で古典的な映画を見ることが流行っていて、それでそれを買ってみた。会場内のゲーセンに行く。スペースハリヤーをやった気がする。スペースハリヤーは当時はまだ聞いたことはあったけど、まだやったことなく3D感が新鮮だった。しかし、なんでここに来てまでゲームをしなきゃいけないんだと思う。一人だったのでコンパニオンの女の人に、多分迷子かと思われ声をかけられる。迷子でないと察するも、土産ものを見てか、映画の話をしてくる「へぇ小学生なのに、チャップリンとか好きなんだ」とかなんとか。正直子供心に彼女はウザかったし、同時に恥ずかしかったと当時は思った(今だと彼女に対してはそうは思わない筈。)。そんなこんなで結局、夢工場に行っても夢工場らしい経験は筑波万博と同様に出来なかったし、なんだか疲れた気分。そんなことを反省材料に、早く大人になりたいなと思った。大人になればそんなつまらないことに苦労しないだろうし、凄い世界を好きなだけ見たり調べたり出来るはずと、当時は大人の世界に行くことを期待していたし、もうクラスの誰よりも最速で行きたいものと考えていた筈。

 結局、僕が大規模な万博に行っても結局疲れて、素晴らしい技術に触れることも出来なかったので、何か別の物事で、僕の期待した万博像を当てはめてみるようになった。そこで気になったイベントが金沢の産業展示館(比較的広い貸しホールです。)で行われていた食品産業フェアでした。会場の中では、寿司やオニギリをオートメーションで作るロボット、まな板も切れる包丁を売る人、米国から当時輸入されるようになった牛肉やオレンジを売る人、キウイやピクルスなど当時あまり見たことない食材の試食などなど。このイベントは万博ではなかったけど、僕が万博に期待したものが殆どそろってはいました。食を通した様々な地域の文化を知ることが出来きたり、見たことない産業ロボが色々観察出来て楽しかった。うーん、だけどヤッパリ万博と何か違うのは、コスモポリタンな世界の賢人が集う場所と言うより、ローカルな県人が集っているところでないかしらん。それでもあのイベントは必死に自転車で家から1−2時間かけて必死に見に行った覚えがあります。

 その後、中学生になり小学生の頃、仲が良かった転校した友達を追って、夏休みだったか、名古屋に行きました。名古屋に出向いた頃、丁度「花博」というのがやっていて(いや分からない後で調べたところ「花博」は大阪、愛知県で90年頃あった規模のちいさな博覧会です)、そちらの方に連れて行った覚えがあります、案の定、その万博でもアトラクションで何を見たか?覚えていません。唯一覚えているのは、フードフロアのコーナーで、珍しいインド人が「インド ノ オシシイ パン」と言ってナンを売っていたこと、それを見て「パンでカレーを食べるインド人は変わっている」と思ったことでした。

 そんなこんなで僕の思い出せる万博経験は、万博に行っても万博らしい経験は出来なかったってことにつきます。また当時は早くかったるい出来事なんて吹き飛ばせる大人になって、素晴らしい世界に飛び込みたい。将来は今より良い世界が来るはず!と期待に胸を膨らませていた気がします。ちなみに未来の自分に宛てた年賀状の内容は以下の通り。

>ぼくはいま科学万博へきています(今10才)
>今
>ソフトクリーム200円
>(カン)飲料水100円
>などです。
>2001年は、ねだんが、かわっていますか
>2001年に、なくなったものはなんですか
>しょうらいはなんのしごとをしてますか

なんだか、今読むとなんだか泣けて来ます。やまうちくんごめんよと、結局彼が想像した大人にはなれなかったし、想像した世界も来なかった。だけど、今そこのとに対して思うのは。想像した世界を叶えたり実現したりは出来なかったけど、きっと彼が喜ぶような出来事を起こしたり出来る自分になりたいと、今は思う。
えーっと、当時と比べて2001年頃までに、なくなったものってなんだっけ?と考える。まず、分かりやすいところWTCにベルリンの壁、昭和に、経済成長はお約束、細かいことは言えばオリンピックや万博やビエンナーレなど国際協議みたいものは成り立たなくなったし、個人的な話、祖父は無くなったし、歯は抜けたし、童貞でもなくなった(w。

そんなこと思い出したり考えながら、思い出した風景がある、小学生の頃、部屋に映画のポスターを良く貼っていて、2010年のポスターは1984年頃から2010年までの日付が書かれたカレンダーで、そのポスターを眺めて2001年頃は、どんなふうだ?って想像したり不安に思ったりもしていた。また今でもこの先10年とかボンヤリ未来の日付をみて期待したり不安に思ったりは今でもしたいな!って思います。

 あれから10年も
 この先10年も

 振りむかない 急がない 立ちどまらない
 君だけを ぼくだけを 愛したときを
 今も誇りに想うよ
 ずっと誇りに想うよ


 ( "10years" 渡辺美里 )













  
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