この世はもうじきおしまいだ
野坂昭如「マリリン・モンロー ノー・リターン」
世界の終わりさえ
Woo 気付かないかもね
Pizzicato V「サンキュー」
最近のアメリカ対イラク武力行使について考えていて僕も反対だけど、どうもデモには引いてしまうし、こんなメールが来てもどうもこのことを思い出してしまう。勿論それらは善意で始まってることは素晴らしいのだけど、どうも空回りしてしまうことに難しさを感じてしまう。でも出来ることがあれば何かしたいが何をして良いのか分からない鬱陶しい気分。そんなことを考えながら僕の中で野坂昭如「マリリン・モンロー ノー・リターン」やPizzicato V「サンキュー」の歌詞が否定的な意味で鳴り響いていた。
友人に以前聴いた話、以前湾岸戦争が起きたころ、柄谷とか文学者が反戦共同声明をしめすころ保坂和志という人は、戦争には興味あるけど、共同声明だとかオルグることにはどうも引いてしまうスタンスだったそうだ。素直にその態度に共感するところがある。
多分今の時期戦争が起きても起きなくても、100年や50年単位で歴史が変わる転換期なのだろう。それはわかる。備えあれば憂いなし。さて何を備えていいのやらと考える。
デモや運動、暴動、など直線的に直結した。表現やパフォーマンスにはどうも僕は引いてしまう。勿論そのことに正しさを感じたとしても。引いてしまう。でも少しそういうことから視点を変えてみよう、例えばこの前の日本であったサッカーの馬鹿騒ぎや、リオのカーニバルは、本当にサッカーが好きな人、ラテン音楽が好きな人、だけが集まって集まって楽しんでいるかと考えたら、決してそうとも限らなくて、ソレに便乗してデタラメに楽しんでいる人もいるだろう、もう趣旨と少しずれた形で。
少し話題がそれるが松本零士という人は、絶対幼いころ戦車とか武器に「カッケー」ってあこがれてそれを拡大したところがあったと思う、それは元々戦車とか武器を必要とした戦争は全然関係なく、はぐらかされた形で「カッケー」って思うことを膨らませていったのだ。多分。
なんだかそんなこと考えたら、僕がデモだとか反戦運動だなんだと考えることは、少し楽に考えられるようになった。今も野坂昭如「マリリン・モンロー ノー・リターン」もPizzicato V「サンキュー」が頭の中をぐるぐる回るが以前と違って楽しく聞こえるようになった。
マリリン・モンロー ノー・リターン
この世はもうじきおしまいだ
桜ちるちる菊もちる
よくばりばばあは長生きで
やさしいむすめは早死にだ
マリリン・モンロー ノー・リターン
この世はもうじきおしまいだ
あるきつかれて西のはて
まっかなまっかな陽が沈む
さよならさよなら国家甲羅
マリリン・モンロー ノー・リターン
この世はもうじきおしまいだ
霞たなびくすみだ川
あほうあほうと鳥は啼き
うかぶ魚の目になみだ
Thank you
ゴキゲンなキスしてくれてサンキュー
ユウツな気分は晴れないけど
Funky
真夜中のラジオは音楽と
ユウツなニュースで溢れてる
ふたりで抱きあっているうちは
地球はとにかく廻っているから
Funky
真夜中の街はとてもファンキー
世界中愛を囁いてる
Thank you
ゴキゲンなキスしてくれてサンキュー
ユウツな気分で死にたいけど
お金もないしねお腹もすいたし
地球はとにかく廻っているけど
こうしてふたりで抱きあっているうちは
地球はゆっくり廻っているから
このままふたりで抱きあっているなら
世界の終わりさえ
Woo 気付かないかもね