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哲学クロニクル抜粋 映画『デリダ』記念インタビューまとめ

Last Update : 2003/02/03


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映画『デリダ』について
デリダ・インタビュー(1)、LAWEEKLY, 2002年11月8/14日

【問】映画『デリダ』に出演を同意されたのはどうしてですか。
【答】すぐに了解したわけではないのです。わたしは写真で自分の姿をみると、
いもつぎこちない思いがするのです。ですから最初は強い留保を感じていました。
わたしが本を書き始めてからの最初の20年というものは、自分の写真が公表され
ないようにしていました。それにはいくつかの理由があります。

まず伝統的な著者近影というものに、いわばイデオロギー的に反対していたので
す。上半身だけの写真とか、デスクで書き物をしている写真は、なんだか本を売
ることやメディアに譲歩しているような気がしたのですね。第二の理由は、自分
の身体やイメージといつもおりあいが悪かったのです。自分の写真を見るのが嫌
いだったので、最初の20年間は政治的な理由をつけていました。しかしこの10年
というものは、それも困難になりました。ジャーナリストが注目する会議に出席
するようになり、写真を撮影されてしまうからです。

わたしはついにこれをコントロールするのは困難だと感じるようになり、自分の
抵抗感を克服すべき時期が来たのだと考えたのです。それで映画化をうけいれた
のです。この映画では、日常の些事や、重要なテーマについての会話をうまく組
み立てているのには関心しました。この映画は作家の「自伝」に疑問符をつける
ことに成功しています。そもそも哲学者が自伝などを書いていていいものでしょ
うか。

【問】でも哲学者が自伝を書かないことなどできるのですか。
【答】もちろん自分では書くでしょう。でも出版すべきかどうかということです。
自分の伝記で、著者が語るべきでしょうか。自分の生活を公的なものとして、解
釈させるようなことをすべきできしょう。

【問】哲学者の書くものと、生活を分離できるものでしょうか。
【答】できるかどうかは知りませんが、多くの伝統的な哲学者はこれを分離しよ
うとしてきましたし、そのことに成功した哲学者もいます。伝統的な哲学の書物
を読んでみればすぐにおわかりになりますが、著者が「わたしは」と語ることは
ほとんどありません。一人称を避けるのですね。アリストテレスからハイデガー
にいたるまで、自分の生活は周辺的なもの、あるいは偶発的なものとみなそうと
してきたのです。重要なのは思考であり、教えることだと考えたのです。自伝は
経験的なもの、〈外〉のもので、哲学の活動や体系とは必ずしも結びつかない偶
然とみなされていたのです。

【問】映画の中で、あなたにある問いが尋ねられました−−「尊敬する哲学者に
なにでも尋ねることができるとしたら、なにを質問しますか」と。すると「性生
活についてですね。決して話そうとしないことですから」と答えておられました。
ところがインタビュアーがあなたの性生活について質問すると、答えられません
でした。どこに境界があるのでしょうか。
【答】わたしが答えるのを拒んだのは、それが隠さなければならないことだから
ではなく、カメラの前で外国語で即興に話しながら、自分の生活のもっとも個人
的な側面を明らかにしたくはなかったからです。こうした事柄について話すのな
ら、文章という自分の道具を研ぎ澄ますでしょう。わたしの書いたものを読んで
いただければ、こうした事柄について、わたしなりのやりかたで検討しているの
をご理解いただけるでしょう。『郵便葉書』や『割礼告白』は自伝的な作品です
し、わたしの生活と欲望は、わたしのすべての文章に刻印されています。



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〈いまだ来らざる神〉
デリダ・インタビュー(2)、LAWEEKLY, 2002年11月8/14日

【問】神という概念が受け入れられないものであることを実感されたときのこと
を覚えておられますか。
【答】この問題を考えるためには、まず神という語で、一般になにが理解されて
いるのか、定義する必要があるでしょう。でもその時のことはよく覚えています
よ。子供の頃、よくアルジェのシナゴーグにつれていかれたのです。ユダヤ教に
は、好きなところもありました。たとえば歌ですね。

でも青年の頃になると、宗教に抵抗し始めたのです。無神論者としてではありま
せん。家族のうちで信じられている形での宗教には、誤解がふんだんにあること
に気付いたからです。考えもなしに、盲目的に繰り返すだけのことのように思え
ました。

わたしは13歳で、初めてニーチェを読みました。すべてを理解できたわけではあ
りませんが、とても強い印象をうけました。その頃の日記は、ニーチェとルソー
の引用で満載です。ニーチェはルソーに激しく反対していましたが、ルソーはそ
の頃のわたしのもう一人の〈神〉でしたので、どうにかして二人を和解させるこ
とはできないかと悩んでいたものです。


【問】ハイデガーが第二次大戦の直後に行ったインタビューでは(このインタビ
ューが発表されたは1976年になってのことでした)、「ニーチェ以後の哲学は、
人類の未来にいかなる助けも希望ももたらさない。わたしたちにできるのは、神
が再び現われるのを待つことだけだ。神だけがいま、わたしたちを救うことがで
きる」と語っています。どう思われますか。


【答】わたしなら〈神〉という言葉は使わないでしょう。でもこの発言でおもし
ろいところは、ハイデガーが反宗教的な人間だったことです。ハイデガーはカト
リック教徒として育てられた後に、キリスト教を激しく拒否しました。ですから
ハイデガーのいう〈神〉というのは、ふつうに言われている神とは違うのです。
ハイデガーの神とは、〈いまだ来らざる神〉であり、おそらく〈いまだ存在しな
い神〉なのです。到来が待たれている者のことを〈神〉と呼んだだけです。やが
て到来し、わたしたちを救う者は、〈神〉と呼ばれることを暗に語っているので
す。


この発言が救済の願望を育むようなものだとしたら、わたしには賛成できません。
しかしもしもこの発言の意味するところが、わたしたちがまだ予見することので
きない者の到来を待ち続けていること、この訪れる者の到来を歓待しなければな
らないことであれば、わたしに異議はありません。わたしはこれを「メシアのい
ないメシアニズム」と呼んでいます。わたしたちは生まれつき、メシア主義者な
のです。


わたしたちはなにかが起るのをつねに待ち続けるという状態で生きているのです
から、わたしたちはメシア主義者であらざるをえないのです。わたしたちがまっ
たく希望のない状態におかれているとしても、わたしたちと時間の関係において
は、期待の感覚が不可欠な要素をなしているのです。わたしたちがなにか善き者、
だれかを愛している者が訪れることを望んでいない限り、そもそも〈希望のない
状態〉というものはありえないのですから。それがハイデガーの語っていること
だとすれば、わたしはまったく同じ意見です。



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他者の寛大さ
デリダ・インタビュー(3)、LAWEEKLY, 2002年11月8/14日

【問】まだ子供の頃に経験された第二次大戦では、生命の危険を感じられました
か。
【答】いいえ。第二次大戦の間はわたしは辛い経験をしましたが、ヨーロッパの
ユダヤ人とは比較になりません。アルジェリアにはすさまじい反ユダヤ主義がは
びこっていましたが、ドイツ軍は駐留していませんでしたし、収容所も、ユダヤ
人の大量退去もありませんでした。それでもトラウマは起きたのはたしかです。
理由もわからずに学校から追い出されますとね。

【問】1998年のロン・ローゼンバウムの著書『ヒトラーを説明する』では、ヒト
ラーのやったことで最大の犠牲になったのは、ものごとの「意味」であると説明
しています。ホロコーストには首尾一貫した意味というものがなかったからだと
いうのです。どう思われますか。
【答】これに関してはごくゆっくりと時間をかけて考えたいと思っています。ホ
モコーストの大量虐殺で何よりも新奇だったのは、犠牲としての構造がなかった
ことにあると考える哲学者たちがいるのは承知しています。冷たく、合理的で、
産業的で、犠牲という意味をそなえていなかったことです。でもわたしはほんと
うにそうなのか、それほど断言はできないと思っています。まだよく考えてみな
いと、こうした問いに答えることはできないのです。

【問】哲学で問うべき中心的な問いはどんなものですか。
【答】まず、人の生をどうするか、どうしたらみんなで幸福に暮らせるかという
ことです。政治的な問いでもありますね。ギリシア哲学で問われたのはこの問い
でした。ということは、哲学と政治は最初から、密接に絡みあっていたというこ
とです。人間というのは、自分に生き方を変える能力があると考えている生き物
で、他の動物よりも高い位置にあると信じているのです。わたしは動物の問題と、
哲学における動物の扱い方には批判的ですが、それは別の問題です。

ともかくわたしたちは自分は動物ではないと考えていますし、自分たちの生活を
組織する能力があると考えているのです。哲学では、できる限りよき生活をする
には、わたしたちはどうしたらよいかということを問うのです。この問いに答え
る上では、わたしたちがそれほど進歩していないのではないかと思います。

【問】知識と智恵はどう違うのでしょう。
【答】異質なものではありませんがせ、智恵をまったく持っていなくても、多く
の知識を所有することはできますね。知識と行動は、深淵で隔てられています。
でもこの深淵があるからといって、決定を下す前にできるだけ多くの知識を獲得
しようとすることができなくなるわけではありません。哲学(フィロソフィア)
とは、智恵(ソフィア)への愛(フィリア)です。哲学とは、賢くあることの義
務なのです。でも決定を下すために必要なのは知識だけではありません。人は決
定を下す前にできるだけの知識を獲得しようとしますが、決定を下す瞬間には、
知識を飛び越して跳躍するのです。

【問】1967年に最初のご著書を出版しておられますが、それで幸福になりました
か。
【答】本を出して幸福になったわけではないですが、継続する力を与えてくれま
した。いまも、とても活発で精力的に暮らしています。20歳のときに、だれがが
わたしがいまの72歳にやっていることを予見してくれたとしても、到底信じられ
なかったでしょう。あのころは身体も弱く、いまやっていることのごくわずかな
部分をやっても倒れてしまったことでしょう。仕事が受け入れられたので、これ
ほどのエネルギーがえられたのです。人々はわたしにも、わたしの仕事も寛大で
す。こうした他者の寛大さなしには、わたしはきっと倒れてしまうことでしょう。



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女性と哲学
デリダ・インタビュー(4)、LAWEEKLY, 2002年11月8/14日


【問】なぜ女性の哲学者はいないのでしょう。
【答】哲学のディスクールというものが、女性、子供、動物、奴隷をマージナル
なものとして抑圧し、沈黙させるように組み立てられているからです。これは哲
学の構造であり、これを否定するのはばかげたことでしょう。そのために偉大な
女性の哲学者が現われないのです。もちろん偉大な女性の思想家はいますよ。で
も哲学というのは、思想のうちでもごく特殊な思想、特別な考え方なのです。た
だ現代では、こうしたことは変わりつつあります。

【問】あなたはご自分をフェミニストと考えられますか、
【答】大きな問題ですが、ある意味ではそう考えています。わたしの仕事の多く
は、ファロス中心主義の破壊にかかわるものでしたし、自分で言うのも変ですが、
哲学のディスクールの中心でこの問題を提起した最初の人の一人でしょう。もち
ろんわたしは女性の抑圧がなくなることを望んでいます。哲学におけるファロス
中心主義的な土台のもとで、女性の抑圧が続いていることを考えると、とくにこ
れは重要な問題です。ですからこれに関してはわたしはフェミニズム文化に連帯
しています。

でもフェミニスムの特定の表現には、留保を抱かざるをえません。たんに男女の
ヒエラルキーを逆転させることや、伝統的に男性的な行動とみなされている好ま
しくない側面を女性が採用することは、誰の役にもたたないのです。

【問】あなたやあなたの仕事に関する最大の誤解はなにでしょう。
【答】わたしが懐疑的なニヒリストであり、なにも信じようとせず、何にも意味
がない、テクストにも意味がないと考えている人間だという誤解です。これはば
かげた誤解で、まったくの間違いです。わたしの文章を読んだことのない人でな
いと、こんなことを言うわけがないのですが。これは35年前にさかのぼる誤解で、
なかなかなくすことができません。

わたしはすべては言語的なものだとか、わたしたちが言語に閉じ込められている
などと言ったことは一度もありません。
ほんとうは、わたしは正反対のことを言
ってきたのです。わたしはロゴス中心主義を破壊することを試みていますが、そ
れはすべてが言語であるという哲学的な考え方を解体するためでした。わたしの
著作を注意深く読んでいただければ、わたしが肯定と信念を強調していること、
わたしが解読するテクストを深く尊重していることを理解していただけると思い
ます。




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三つの齢
デリダ・インタビュー(5)、LAWEEKLY, 2002年11月8/14日


【問】他者を十分に理解すれば、殺したいという衝動はなくすことができるもの
でしょうか。
【答】他者を殺したいという衝動がなくなることはないでしょう。この衝動は、
人間の動物的な部分だからです。人間という動物には、残酷さという能力があり、
他者を苦しめることは、快楽の源泉になりえます。これは消すことのできないも
のですが、だからとってわたしたちに他者を殺す権利があるわけでありません。
この消しがたい衝動を押さえることが、哲学と思想の重要な機能の一つです。

残酷さと攻撃性はなくなりませんが、これを美しく、崇高なものに変形させるこ
とができるのです。わたしが文章を書くとしますね。この活動には攻撃的な要素
が含まれています。しかしわたしはこの攻撃性を有益なものに変えようとするの
です。攻撃性は、殺人よりも興味深いものに変形させることができるのです。そ
してもちろん、他人は殺さずに殺すことができるのです。わたしは他者の命を奪
わずに、他者を殺すことができます。卑しくない形で攻撃的であることもできる
のです。


【問】領土と所有の概念が、人間の多くの対立の根源にあるようです。こうした
概念はどこから生まれたのでしょうか。人間はなぜこれに固執するのでしょう。
【答】何世紀にもわたって、都市は商業にとって決定的な意味をもつ重要な中心
地でしたが、新しい技術の登場とともに、都市のこうした役割は失われました。
そして場所を所有することの政治学も変化しています。しかし場所はいまもなお
重要です。ある友人が最近、脱領土化も、仮想現実化もできないものがいまでも
二つあると語っていました--イエルサレムと石油です。
だれも仮想現実としての
イエルサレムなど欲しがりません。現実の土地を欲しがるのです。

資本主義的な国民国家は、石油で生きています。これを変えることもできるはず
ですが、変えたなら、すべての社会が崩壊してしまうでしょう。だからこそ石油
が重要な問題なのです。ヨーロッパよりもアメリカで、石油は重大な問題となっ
ていますが、ヨーロッパも同じことです。明らかな理由から、なんでもアメリカ
においてはヨーロッパよりも大きな問題になるのです。

【問】過去は人々にとっては苦痛の源泉でしょうか、それとも快楽の源泉でしょ
うか。
【答】それは人によって違うでしょう。しかしわたしは幸いなことに、過去と幸
福な関係を結んでいます。わたしの生涯で困難で、ひどい時期もありましたが、
こうしたひどい時期についても、幸福な記憶をもっています。わたしは自分の一
生を繰り返すつもりがあるかと聞かれたら、これまでの生涯とまったく同じ一生
を、無限に反復するつもりがあると答えるでしょう。永遠回帰ですね。


【問】いまあなたにとってなにが重要ですか。
【答】わたしがどうしてそんな質問に答えられるというのですか! プライベー
トなこと、公的なこと、政治的なことの多くが、わたしにとって重要です。でも
わたしは老い始めていること、わたしはいずれ死ぬこと、わたしの一生は短いこ
とをつねに意識しながら、これらのすべてのことについて考えています。わたし
に残された時間の長さをいつも意識しているのです。若い頃から、こんなふうに
考える癖があったのですが、72歳にもなると、これは深刻な問題になります。

でもこれまではまだ、死が不可避であることを納得して、穏やかにうけいれてま
せん。そもそも死ぬのかどうか、疑問に思ったりもします。世界はいま、ひどい
状態ですし、これらのすべての事柄が心にかかっていますが、これはわたし
自身の死への恐怖とならんで存在しているのです。

【問】ところであなたが大人になったのはいつですか。
【答】おもしろい質問ですね。わたしはつねづね、だれもが複数の齢をもつのだ
と、考えてきました。わたし自身は、三つの齢をもっていると考えています。わ
たしが二十歳のとき、わたしは自分を老人で、賢い人間だと考えていました。
しかしいま、わたしは自分は子供だと感じています。これにはメランコリーの
要素も含まれているのです。気持ちでは自分が若いと感じながら、客観的に
は自分が若くないことを知っているからです。

わたしの持っている第二の齢は、72歳という実年齢です。そしてわたしは毎日、
この事実を思い出させる兆候と直面しています。わたしのもつ第三の齢は、これ
はなぜかフランスでしか感じることがないのですが、わたしが本を出版し始めた
ときの年齢、すなわち35歳です。わたしが仕事をしている文化的な世界では、わ
たしは35歳で停止しているような気がします。もちろんこれは事実ではなく、多
くのサークルで、わたしは多数の著作を発表した高齢で高名な教授とみなされて
います。しかしわたしは自分を、著作を発表し始めたばかりの若い書き手で、人
々が、「おや、あいつは有望じゃないか」と言っているように感じるのです。



■この内容は、哲学クロニクルメルマガの内容の抜粋と転載です。内容が関心深かったのと、バックナンバーがウェブ上にhtml化してなかったので、個人的にメモ程度で、無許可な転載です。勝手に転載すんなー!とか言われたら即削除のつもりです。
個人的に気になった箇所は赤字にしました。