『ジュリオ・ロマーノもまた、才能がある。』それは、川崎IBMで一昨年あった、展覧会の名前ですが、石岡さんがその時書ゲームとかレトリックとか文脈とかの話について書いたテキストのタイトルでもあったと思います。また、それは一昨年、岡崎さんとかがやってた。灰塚アースワークのなかでの勉強会テキストの勉強会の延長だったと思います。「time and spece」って誰が書いたか忘れましたが論文の一説だったはずです。
その論文のなかで、ルネッサンス期のジュリオ・ロマーノは一般にはB級の文脈ととられるが、別の文脈をとらえるとそうでもなくなる、でも文脈が乱立すると現象ばかりで歴史や文脈が消える。そのスリリングな文脈の立ち居地こそ面白いとゆう内容だったはず。
それを聞いて思い出すのは、僕は友人に連れられるばかりで、僕自身興味はあんまりないけども、4-5年ほど前にみた新宿のかに道楽前のゲーセン、スポーツランドの対戦ゲーム風景で(多分ヴァーチャファイター)、そこではゲームとしてのラスボスを倒すって、本来のゲーム進行は意味を持たないけれど(本来の文脈が消える)、全国から神とか言われるプレーヤー達(確かブンブン丸とか?)が集まって、カリスマゲーマーを倒して自身がそれになろうと目指す(一応本来の文脈とは別の文脈の登場)ということが盛んに行われてました。
その後、それぞれのプレーヤーは、別のゲームを目指したり、只飽きたり、ゲーム編集者になったりと、複数の別の文脈の乱立で、ただ、盛り下がるだけなんだけど、ヴァーチャ自体の文脈が消えたことだったのかな?って、その勉強会のこととゲームのこと思い出して考えたり思ったりしました。