「ニーチェ・バタイユ・岡崎京子」は友人が昔なんとなく、スローガン風に言ってた言葉なんだけど、どれもちゃんと読んでないので、はっきりと繋がりが読めない。
岡崎京子の「ヘルター・スケルター」の解説をこちらで読んだ。
バタイユ「眼球譚」と、岡崎京子の「ヘルター・スケルター」がつながりあるようにも、読めなくもない。いや、只の目玉繋がりだけなのか?はて? (2001/08/03)
--------最近メールで書いた「ヘルタースケルター」の話題ついて--------
>「ヘルタースケルター」どうだった?(ある方からのメール)
凄い引き込まれかたをしました。もう買った当日スーパーのレジ待ちで読んだりとかで、読んでると凄いディテールが、デビットリンチの映画や写真とか、バタイユ「眼球譚」、媒図マンガのような語り口などなどついつい、そのスクラップ感に同感や共感もあってハマってしまうところがあるんですが、それはまんまなんで面白みが実は無くて、岡崎マンガの良いところはキャラが破綻していく言葉使いかなぁと思いました。
なんか一部のディテールに過ぎないけど(P267)とかいや参照出来ないと思うんですが、覚えていたら開いてみて下さいませ。なんか僕とか普通にこんなことあるよなぁとか思ってしまいます。
僕は岡崎京子はみんなに愛させるべきマンガ家だとも思わないし、なんとなく近い経験などあると思い入れがしやすいしそうやって好きになる読者も好きだし逆に思い入れもンないし関心も凄くないって読者も好きだけど。なんとなく岡崎京子好きとか言われるとむかつく感じがします。
というのも以前友人とリバースエッジの話をしていて、その友人が「もしも自分がリバースエッジの登場人物だったら誰に感情移入できるか?」みたい話を振られて、僕はなんとなく主人公やイジメの山田くんとか考えて見てたけど(惨事は起こさないけど常に事を見てるボンクラな立場と言うか)その友人は、俺はこの話に出てくる人には共感できないしできるとしたらストーリー進行に関係ない防波堤で釣りをしてる同級生ではないか?と言ってました。その友人が言うに高校生ぐらいのモヤモヤ感を表すなら安達哲の「さくらの唄」の方がいいとか。。その友人と僕はリバースエッジとさくらの唄の思い入れは逆なんだろうなぁって、その時思いました。
--------最近メールで書いた「ヘルタースケルター」の話題ついて終り--------
で、第16回 掟破りの逆サソリ的作品紹介 〜 岡崎京子『ヘルター・スケルター』 を読み返して
『pink』は、売春を繰り返しながら自宅に飼っているワニを可愛がるOLユミちゃんが主人公。『リバーズ・エッジ』は学校の近くに放置されている死体を見て安心する少年少女が主人公。両作品とも、心の拠り所をワニや死体といった外部に置いている。
それに対して、『ヘルター・スケルター』で主人公りりこが心の拠り所とする大切なもののは、整形で得た美貌。これは身体化されているという点で、ワニや死体と比べ本人との一体感が強い。しかし、その美貌は他人から与えられたものであり、しかもアザができたり髪が抜けたりと少しずつ失われていくものだ。
なるほどね。すなわち「老いる」と言うことか、とにかく若くて何も知らなくてって時とか「私、私好きー。」とか言ってて関心の対象を常に外に向けていて、自己の恣意性のようなものに気づけないでいて、いざ自分が年老うとそれまでの自分が気づかなかった自分自身の能力を過去にもってた自分に気づく、それでも自分はそんな自分に向き合っていかなければならないってことか。で、そういうことが『ヘルター・スケルター』は書き表されてて面白いってことなんですね。(03/4/22加筆)