望月 峯太郎 (著) 「お茶の間」ミスターマガジンKC
最近良く読み返した。読み返して思うのは
初め、オシャレな生活に憧れるソノコ君の家に花井薫が転がり込んで来て、まんまドメスティックな日本の風景を再現する(こたつに、みかんで、猫が居て)って風景なんですが。
オシャレな風景でも、そんなドメスティックな風景でもある型にはめてまとめてしまえば、それなりに完成にしたものはなる。でもなんかこう、そうゆうスタンスやスタイルって今の日本にいてイマイチしっくりこない。そのことを例えば様式のことに置き換えて言えば和洋折衷ってことになるとおもうのだけど、なんだろそういう硬い言い方しなくても、自分と自分でない誰かと何かやろうとすると絶対、不具合とか不都合とかあって、そこで自分の意見をただただ言い合うわけでなくて、お互いの目的に見合った出来ることを足並みみて、合わせていくようなことを、少しでもみていったあとに出来るスタンスだとかスタイルってあるんだよな。ってことをつくづく考えさせられた。色々、仕事でも、人付き合いでも、やりたいことでも、何でも。
そんなことを望月峯太郎は意図としたと思うのだけど、物語の終盤、ソノコ君と花井薫のバランスもとれてくるんだよな。
そんな話にも似たエピソードで「お茶の間」の前のエピソード「バタアシ金魚」の中でも、あったように思う。ソノコ君がヤケ食いして、ブーになって引きこもって、薫に会うに会えない。そんなときに薫に遭遇し、「こんな私でも私のこと好きか?」みたいことをソノコ君に言われて、薫はそれでも好きだとかって答えるような感じ。僕はあのシーンも結構好きだ。