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自己とは他者である

Last Update : 2003/02/04

ランボーは「自己とは他者である」と言ってたそうだ。蛇足かもしれないが僕は、自己の内面も他者であると付け加える。
他者ある自己の内面とは常に曖昧で、夕飯に繁華街で1000円程度で何か食べたいと思うとついつい、肉もいいし、中華もいいし、パスタもいいし、800円ぐらいの少し安い価格の食事は魅力的だけど美味しくなさそうとか、常に常に自分の希望すること望むことの選択肢が増えてしまい、ついつい自分は何を食べたかったのだろうか?と相対化する選択肢に迷う頭と、お腹が減る体の間に悩まされることが良くある。それは食べ物の話であれ、そうでないことを思いつつ思う。
しかし、結局僕は何かを決定してゆく。自分の中で自分の好きな選択肢を決めていくような作業。

自分の作ったもの書いたもの作品などが何時か何処かで評価されることがあるならば、過去にあった何処かの歴史やそれに伴う経済に照らし合わせで評価させるものだと思う。
無知なころはついついそう思いがちだが、自分で無意識に何かしたことが過去の歴史に照らし合わせられることがある。
過去の歴史の先の話に出てきた内面のようなもので、結局参照するには広大なブラックボックスがあって、その中から何が自分にとって大事かつむぎだすような作業のような印象がある。勿論迷いながら、選びながら。その自分に明文化された歴史されない歴史全ての延長の上に今の自分はいるし、全ての人はそのように立っているはずだ。と考えている。

しかし、時に自己とは他者ではなく、内面はなく、過去の出来事にないことをおこない、常に他の物事や人々と違う自分で居られると思っている人がいる。結局は何処かの形式に落ちることがオチと僕は思っても、そういう人は僕の考えすら認めないんだろうか?
また、世の中には「形式がないということが形式」という捻くれた?形式は形式である。なんだかんだ言いつつもそうゆうスタンスにも内面はあるのだろうか?
その考えかたとは別に、全てに人は内面なんてものは初めなくて、あるときふと酷く反省したときから、自分の中に「内面」というものが現れて何かを思うものなのだろうか?

と、ぼんやり考えていた。


P.S.
しかしながら、健康だった人が怪我や病気にあった際、自分の体が自分の体のように思えなくなる時がある。そんなときに、奇妙な内面、「自己とは他者である」と思うものなのかも知れない。