さまざまな絵画などイメージを扱った作品は、解像度というか?あるフィルター越しの視覚をもって対象しイメージし我々は見ているはず。逆にイメージなしの図像は、どんな視覚的なフィルターも媒介としない。(注1)
ここで、モチーフと見え方について、過去の作品など採り上げつつ、わかりやすいように、その事例を参考画像で例えながら話をすすめてみたい。
参考にしてゆく画像は、手の上にウサギが乗ってる画像です。
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まず、スーラの"A Sunday Afternoon on the Island of La Grande Jatte"のですが、図像の左は、その本作品の部分、右はその秀作の部分を取りあげています。ここで気になるのは同じような部分をみてみても、作品をドットのキメが、本作品は細かく秀作は荒いことです。
このイメージの部分に対して本作品は大画面で、秀作は比較的小さな画面でどちらも同じような太さの大きさで描いていると察することができるのでこのような効果を生んでいると思われます。
ウサギの画像でこの効果を再現してみました。
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この画像はWillem de Kooning 'Woman IV'ですが、スーラになぞって筆の太さや筆触を一つの、解像度をみるドットとしてみるならば、様々な太さのポイントが戯れあっています特に、モチーフの際になる部分は細かく、それ以外の部分は比較的大きなポイントで埋められています。
ウサギの画像でこの効果を再現してみました。
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この図像は、私は、媒図かずお「わたしは真悟」の一場面ですが、このページは、一見コンピューターで規格的に描かれた図像にみえますが、手書きののマスの上に一つ一つのドットを塗り固められています、よってよくよくみると、形式が歪んでいて面白い効果を生んでいます。
ウサギの画像でこの効果を再現してみました。
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一口にモチーフを何かフィルター越しに解像度が、自然だとか不自然だとか、クリアに見える見えないとか、歪んでるゆがんでない、等の要素を
一つの作品または連作において見える作品を現在僕は作ろうとしています。
現在、それが非常に意識的な作品で完成されたものは未だ少ないのですが
以下のリンク先に完成されたもの制作中のもの等にリンクをかけておきます。
http://omolo.com/text/images/kaizoudo/fera.jpg
http://omolo.com/text/images/kaizoudo/papa.jpg
http://omolo.com/text/images/kaizoudo/mario.jpg
http://omolo.com/images/pic/news-pic.jpg
■注1
Q. 「イメージなしの図像はどんな視覚的なフィルターも媒介しない」とはどういうことか?
A. これは、何もモチーフなしに何か作品が出来てるようなもの。そんなものはこの世にはあり得ないと僕は思うのですが、作者がそのような意図で作る素材に意志的な作品ってありますね、ステラのシェイプドキャンバスとか、ジャッドの箱とかそんな作品など差して考えています。
イメージとフィルターの話しは、基本的に、あなたの見てる赤色と僕の見てるその色は違うけど言われて連想するものは同じに感じるとか、二十年ぶりにあった人の姿は過去と全然違うのに同じ人として見えるとかそんな話がテーマです。
しばらく前たとえば作品に「この○○は、この○○である。」とか考えていた頃は、「何も表現してないことを表現する」とかそんなことを考えてたように思います。しかしこれやってみると結局デュシャン的な問題になってしまって、どうもアートというより周辺的な事柄(社会状況をレポートすることや、交換する行為だとか)になってしまうと危惧したので、それをテーマに扱うことは、ひとまずおいておいて、イメージのことなどを考えるようになってきています。