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方法とモチーフ

Last Update : 2003/02/04

 あまり自分の作品製作も交えて作品を鑑賞することは得意ではないのだが、最近普通にスムーズに作品が作れません。泣き言を言って何になると思うんだが、WTC後であることと、その頃起きた個人的にショッキングな出来事とが何か引きずって、何をやって良いのか解らないのが正直なところです。

 作品製作にあたり、作者が意識的であれそうでないであれ作品の評価は、その作品や作者のやり方に対する歴史性と市場によって、作品や作者の評価は決まると思います。それは意識的なことであれ、後付であれなんであれ、結果的なことと思います。作者によってはそれを語るであれ語らないであれ(僕とか美大卒系は特に)その作品がどのような文脈で、評価され流れるかをさばを読んでそこに向かえるように見え方や技術など習得されて製作するものと思います。その歴史や好みの読みによってある程度の当りハズレもあります。またその読みから、ある程度どのように作品を作るか?作品の作る方法がある程度決まるものと思います。それが上手く当たればそれで出来たものはある程度の共有感覚は生まれるし、それなりの評価も与えられるでしょう。

 只、そこで気になるのは何をしたいか?何を描きたいか?作りたいか?が余りにも、欠落してしまうこともありえると思います。
 それは必ずしも、アートとは言えないと思うのですが、例えば、アウトサイダーアートや、萌えミュランで取り上げられる文脈は、アートにありがちな、「方法」的なものはないのですが(勿論「萌え」や「アウトサイダーアート」の感覚にはそれぞれのセオリーは勿論あります)、確実に、何を見せたいか明快なヴィジョンがあって、それを上手く表現できるようにテクを昇華させる訓練もされていて、時にその見せたいことが、方法を作り出す面白さには僕は非常に感銘を受けます。
 只、「萌え」とかアウトサイダーの人が作りたいと感銘受ける物事は、あるフェティシュな感情はあらゆる人に、何か思わせる共有できる物事でないことが大半だと思います。横目に「あの人はキショイ!アニメな絵とか好きなのね」とか「ちょっとイってしまった、おかしな世界に居るのね」とか少々差別的に見られることが極普通のことによう思われます。
 確かロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」でもそのような章は確実にあったとおもうのですが。誰か好きな異性とかいて、自分一人の頭の中では無茶苦茶可愛いとかカッコいいって視線で見てる人が居て、誰かにその人やその人のことを、コレコレこういう事情でこのように思うんですとか、紹介したとたんに誰かに「えっ、そう?」とか言われ、自分自身に落胆したり、そのような告白に怯えたりするような感情。
 これは共有できないかもしれないと思う物事に対しての感情や印象についての素直な気持ちだと思うのですが、そこで、心の奥に閉じ込めずに、開け直れる感情は、先の「萌え」なものなどが昇華して、面白い表現を生むことには繋がると思います。
 また当然のことですが、そのフェティシュな興味や表現を、特殊な人の特殊な表現だとして、動物園の動物のような見世物として、差別的な感情で見られることを前提に見せることは、それを本気で見せようとか、やりたいって方々に失礼なのでしてはいけないことに思います。勿論それが何もわからない外人とか外部の人にエキセントリックだとかオリエンタリズムだとか、市場に乗りやすいとかって論理に乗るのは解りやすいことだけど、どう考えてもわかりやすすぎだろ!って思うし、そんなことに受ける人も馬鹿すぎるだろと思います。そのような人はそこに生まれるある種傲慢な態度、差別的な感情になんとも思わないのか、少々疑問に思います。

 今、アートで自分の作品でも人の作品でも思い、面白くないなって思うことは、その作品を作るに当たって、何かしたいとか見たいって感情が余りにも欠落したものを多く感じます。またソレがあったとしても、勿論一種のフェチな感覚だけなら、余りにも空しいとは思うしそうなることは多いのだけど、しかし何か見たいって感情があからさまに感じることが余りないと感じることが少ない、それは残念なことだとおもいます。
 そこで、「そのプロセスや方法を見せることが、見せたいこと」って一種捻くれた?モダニズム的な?回答もありだけど、それでは何かたりないし、アートな人はそんなことばかり考えすぎてる印象があって面白くないです。

 って、フェチな感情は大事だけど共有されない、アートはある程度共有できる感覚や方法やセオリーが確立してるけどソレに合わせただけでは何かたりない。ってネガティブに考えるのもどうか?と思うけど、何かそのネガティブな気分を反転させたことろで、何かポジティブな面白い発想が産めないものかと考えます。

 それが何か解れば、僕の中で去年の秋ごろから気になってる何かに対して確実に乗り越えられる気がするのだか、それが何かは解らない。