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タランティーノ以降の映画について

Last Update : 2003/02/04

everythingcoolbbsにて
http://11.teacup.com/cool/bbs
>彼女(ドリュー・バリモア)のみならず、『パルプフ
>ィクション』の方法論を使ったプログラムピクチャー
>を量産すべくミラマックスが発掘したケヴィン・スミ
>スとケヴィン・ウイリアムソンが何故か2人ともジョ
>ン・ヒューズ信奉者だったってのは、凄く興味深いこ
>とです。もともとヌーヴェルバーグってのは自分達の
>感覚に近いセリフを発したり行動をする登場人物が既
>存のフランス映画に無いことに業を煮やした若い映画
>作家達がアメリカのプログラムピクチャーに触発され
>て、低予算で映画を撮って支持を得たっていう運動な
>わけで、ジョン・ヒューズは例えるならばヌーヴェル
>バーグにとってのジャン・ルノワールみたいな存在な
>んじゃないかと。(長谷川町蔵)

 僕も最近のハリウッド映画(『パルプフィクション』『ファイトクラブ』『マグノリア』etc)に目を見張るのは明らかに、辺りの点です。
以前、ストローブ/ユリレの上映会の際、浅田彰が、ゴーダルとストローブ/ユリレの間にこれからの映画の可能性があると言った主旨のことを言ってましたが、それらの映画にはストレートに当たるんではないかと確信を持ってます。
 これは別に映画だけの問題でなくて、ゴダールの映画史をJ・ポロックの絵画、ヌーヴェルバーグを構造的に新抽象表現主義に置き換えることは容易です。ここで断りたいのは映像は映像、絵画は絵画だし、構造的におき変えられてもここの固有のメディウムはあくまで固有のもので、構造だけが置き換わることです。
 ゴダールの映画史をJ・ポロックの絵画に詳しく置き換えてみては、映画の絵画は支持体としてのフィルムのミスプリントやシーケンスしないと思われる映像のカットアップで繋いでいけば、そのメディウムの映画性はより表出することにはなるでしょう、但し映画豊かさとしてある物語性は失われます(物語なき、物語と否定的には言えます)。それに対してJ・ポロックの絵画は支持体としての絵の具のシミや垂れ、構造物としての木枠や画布があることを明解に分る描き方をすれば、そのメディウムの絵画性はより表出することにはなるでしょう、但し絵画豊かさとしてある描写性は失われます(描写なき、描写と否定的には言えます)。
 それらのパイオニアとしてのスタンスとして、それはそれで良かったのかもしれませんがこれからのパイオニアとしては、おのおののメディウムの豊かさを巡って描写性、物語性を今一度考える必要はあります。
 他方で、スピルバーグの映画やイラストレーションのような、ハプニングが起こるタイミングを繋いだ映画、迫力ある構図で描かれた絵等ありますが、僕が一つ上で述べてきたスタンスとは相対するものになるでしょう。しかしそれは全く否定することも出来なくて、先で述べたこととは別の豊かさを、それらは持っています。
 そこで、『パルプフィクション』以降の映画のスタンスは、そのどっちでもなく、どちらでもありえる、しかし以前の出来事に解答をしたと言えるでしょう。
 僕自身が今制作に向う、またはすでにある同世代的なものは将にその点です。Q.タランティーノ然り、ケヴィン・ウイリアムソン然り、、、、僕然り、ある意味オタクであることは認めますが、それはあくまで、スタンスであって、そのスタンスにあるからこそ、新しいとか、正しいとか、カッコイイとかは思いません。むしろそれは今まで接してきたスタンスであってそこからどうやって行くか?が重要なところでないでしょうか?

※付け加え上に色々書きつつもそのBBSで一つ返事がくると自信がなくなって来たな〜。うう〜ん煮え切らん。 (2001/03/06)



そのBBSでの話題は僕の場違いさもあって無惨に流れて行くものの、あそこで僕のその話題をするのはどうか?と思いつつ反省しつつ、自分の思うことはまとめて行きたい。

デ・クーニングは「絵を書くことは馬鹿らしい。でも絵を書かないことも馬鹿らしい。」と言いましたが、これは物語性、描写性の言及に対して、その支持体やフレームなどの媒体を自明であることとの垣根にある可能性についてのことだったのではないか。
別に絵画だけの問題でなくて「映画を物語ることは馬鹿らしい。でも映画を物語らないないことも馬鹿らしい。」とも、「文学を語ることは馬鹿らしい。でも文学を語らないないことも馬鹿らしい。」とも、「音楽を演奏することは馬鹿らしい。でも音楽を演奏しないないことも馬鹿らしい。」とも言えるはずだし、問題設定として可成り王道行くことではないか?しかし、この問題設定に答える好ましい人ってのは本当にいなくて映画で言うと「タランティーノ以後」ある意味同世代的(20年.10年ぐらいのスパンで)な監督でチラホラ面白くなって来たと思うところ、他のジャンルでピンと来る人が今のとこは、あまりいない。そこれ僕は、Q.タランティーノは勿論、P.T.アンダーソン等もその視線で評価したいのだ。ダっダダダダダダっっ。(2001/03/09)