2003/06/07 (Sat)
自然に消え、水でも消せるマーカー チャコエース 元々手芸用のチャコペンのマジックタイプ。水をかけたら消える。カンニング、証拠隠滅等々探偵グッツとしてもそそるのだけど、水に溶ける紙同様、上手いタイミングで使う機会がない。だけどワクワクする。
「地底人伝説 第4回 みんな地底人」中学生日記 「中学生たちの間では次々と新しい「伝説」が生まれ、口コミによって、瞬く間に全国に広まっていく。「伝説」の背景には、不満や抑圧、大人社会へのあざけり、そして見えない他者への不安がかいま見える。 最近、名古屋の中学生たちを中心に「地底人伝説」が広まりつつある。「地底人」とは、最底辺の生き物として、中学校の地下を住処とする存在である。シリーズでは、「地底人伝説」に込められた中学生たちの思いを、さまざまな角度から画き分け、中学生たちの心の奥に秘めた「深層心理」を軽快なタッチで描く。 「いじめ事件」をきっかけに、人間不信に陥った生徒が、“地底人”出現騒動を通して、分かり合うことの難しい他者と関わっていくことを知る。
追いつめられ、行き場のなくなったヒロノリは、己を伝説化し、クラスの仲間に復讐するため、自殺を計画する・・・。まったくの他人である「他者」と「わたし」(ナミとイオ)は分かり合うことができるのか。 」 スタンダール「恋が生まれるにはほんの少しの希望があれば十分です。」
「この枠では珍しくも連続もの。「地底人」の噂が広まった東桜中。それぞれの理由で地底人にこだわる二年生のイオと三年生のナミが主人公。イオはナミに恋する。しかし、イオを好きなヒロノリ、ヒロノリを好きなハルカ、ナミの「友人」たち、ナミと同じクラスでいじめられている窪田を絡めつつ、基本的には二人の日常が平行して別々に描かれていた。二年生なのに後輩とともに球拾いをやらされるイオ。「地底人」呼ばわりを受け、日々馬鹿にされている。親や友人に上辺だけ合わせているナミ。そんな自分に嫌悪感を覚えている。ホームレスの老婆に憧れ、彼女の姿から、しがらみのない別世界である地球の裏側=地底で生きる人々を夢想する。
さて最終回。この二人がやっと「出会う」。二人にとってまったく別々の意味を持った「地底人」も、このシーンではじめて「出会」う。お互いの持つイメージには、まったく接点が見あたらず、話はかみ合わない。しかし──。この長回しのシーンがクライマックス。演出の淋代ディレクターの過去の作品同様、筋道立てて説明できるような展開じゃないけど、ここでナミとイオは、一瞬だがたしかに「理解」し合う。
正直言って、淋代氏の前作『青春マグニチュード』の反復に思えてしまう(あるいは、それ以前の作品からの、淋代Dの手癖なのかもしれない)。しかし、この「理解」のシーン(山本直樹『ビリーバー』のなかの一コマを思い出した)の、なんともいえずセンチメンタルでゆるゆるな時間の流れ方は、やはり忘れがたい。」 テレビドラマ掲示板
「■「ねえ、地底人の話してたよね。自分が地底人で、一番底から見上げてて、井戸の底から見上げてるみたいな感じ、って。でも私はね、私の思う地底人は違ってて、こう、空洞の地球があるでしょ、それで大地をはさんで表に私たちがいて、裏側に地底人が立ってるの。全部が反対にいてね、地底犬とか地底象とか、全部があるの。なぜかというと・・・<人間様>じゃないはずだから!」「でも僕は、この一番下の、最低なとこにいます」「そんなの歩いてくればいいじゃん。こっからクルッて」「でも地底人にはかわりないです」「裏側に誰かがいるって頼もしいよ。頼もしいじゃん。こう、足の裏っかわに私たちみたいに生きてる人がいるんだよ」 NHK教育『中学生日記』5/1「地底人伝説C」より 」 2003/06/01(日)インサイター
僕は未見ですが地底人伝説の第2話で、ナミがホームレスになりたいとホームレスのおばさんに言ったら「アンタ犬より偉いんかい?」と言われてホームレスになることを考え改めるエピソードがあったようだ。
大宮ゆの郷ご案内 お風呂ブームです。<俺 ネタとかでなくて、このページmidiが五月蝿いね。
〈イルスの竪琴〉メモ イルスの竪琴 Riddle-Master Trilogy(Patricia A_ McKillip) イルスの竪琴 星を帯びし者 ハヤカワ文庫 FT 9 イルスの堅琴 1 パトリシア A.マキリップ (著), 風の塔目次 なんで〈イルスの竪琴〉をメモしてるかと言うとバルバロッサの由来はこの話のエピソードなのだそうです。
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「藤城清治さん」話まだ続きます。で日本の文化が西洋から輸入される形で導入されれば良いと勿論僕も思わない訳。モダニズムやらなんやら、勿論そういうことをリファとして参照するし、又それを知った上で海外にはアニメとか漫画の文化がないからこれからこれを輸出するって発想も違うんです。 例えば「ウェブログ論争」みたい話ありますよね。ウェブログは新しいジャーナリズムでblogとか、モーダルタイプは凄いとかなんとかで、日本語圏にはテキストサイトとか文中リンクを張る習慣のサイトはあったし、日々思うこと更新するのが目的でツールや方法は何でもいいじゃん、いやよくない!って話。 で、日本の美術史とか眺めるとマチスと同時代に熊谷守一が違った方法で似たような目的を持ってやってた。でその目的が意図としてOKとして読みとれる人は読みとれる。そういう物事が面白いんじゃないかと思います。
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